(クールさん)



  この方はC(合理性)が高いですね。親の部分も子供の部分も低く、C(合理性)だけです。外から見ている限りは、暗い感じなどなく、いい子、いい人です。しかし、なにか生き生きとした感情は感じられません。激しい不安や不満、喜びや感激、悲しみなどが、このパターンの方からは考えられません。

  A(きびしい親)がないので、人に対しては厳しいことを言いません。人は人という感じです。非難もしないが、されるのも嫌いです。B(優しい親)もないので、かかわりあいになるのも嫌いです。べたべたした付き合いは耐えられません。この社会をどうするかといった発想はほとんど無縁です。

  D(自由気ままな子供)もないので、ぎらぎらして自分を主張したりすることはありません。自己実現にもあまり興味ありません。特に、現在の生活に不満を感じません。

  E(人の評価を気にする子供)も低いので、将来どうなるとか、このままでいいんだろうか、そのような不安も余り感じません。上昇志向もなければ、自己否定や生きている実証というような激しい感情には興味ありません。

  強制やさしずせされることは嫌いですが、自発性もあまりありません。 何事もコンピューターのように合理的にさばいて生きている。このタイプをクールさんと申します。大変気になることですが、若い方に多いですね。一見明るくて、いい子なのですが、社会性を感じられません。


{自滅のシナリオ}

  ただ、最初からこうだったかというとそうではないでしょうね。先程の「伝統さん」と同様に、子供のときはD(欲望充足本能)とE(自己防衛本能)であり、親がつきっきりで安心と満足を与えていたはずです。どうしたのでしょうか?

  さらに変なのは、A(きびしい親)とB(優しい親)の部分もありません。親の部分がないのです。どういうことなのでしょうか?

  実はこのタイプは若い方に多いのですが、若い方に、「どんな親になりたいですか?」と質問しても、答えは返って来ないでしょう。現在の日本には親のモデルがありませんので、親の部分が育ちません。親のモデルのない時代に生まれてきた世代が、A(きびしい親)もB(優しい親)も成長しないのは当然かもしれませんね、

  人間はほかの動物に比べて著しく未熟な状態で生まれてきます。赤ちゃんのときに捨てられて、狼に育てられた狼少女が発見されて、その後人間社会で教育されたが数個の言葉しかわからず、結局人間にはほど遠い状態で20才にも達せず死亡した報告がありましたが、人間は文化がなければ人間にはなれないのです。

  しかし、第二次世界大戦による敗戦後、経済的な発展だけを目的として来た日本はお金だけの国になりました。新しい時代の文化や親のモデルを発達させては来ませんでした。親のモデルがなければ、親の部分は育たないのです。そして、これは社会を支えているものですから、社会性がないということになります。

  このような時代では、子供達はどうなるのでしょうか? 子供のときは親がめんどうを見てくれます。しかし、いつまでも親の元にいることはできません。社会の中へでて行かなくてはなりません。しかし、社会性がないのですから、どうして良いのか分かりません。

  親の部分は、子供の部分を守る役割を果たします。世の中のことは、親の部分で判断して対応します。この場合はこのようにしたら良い。この人との対応はこれで良い。将来の方向は、この人を模範にすれば良い。親の部分は、子供の部分にとって防波堤のようなものです。

  D(自由気ままな子供)は、A(きびしい親)とB(優しい親)とC(合理性)が適正に働いて初めて、社会のなかで満足を得られます。E(人の評価を気にする子供)も、A(きびしい親)とB(優しい親)とC(合理性)が機能して初めて、自分を守れます。

  A(きびしい親)もB(優しい親)も発達していない状態で、社会のなかでD(自由気ままな子供)は突出し、我がままにしかなりません。E(人の評価を気にする子供)は自分を守る方法も知らず、かばってほしいと言っても軟弱としか受け取られません。我がままと軟弱、こんな評価しかもらえません。傷つくだけです。

  最初はE(不安さん)で、人の評価を気にして生きていた。しかし、ふと周りを見渡すと、気を使わないで生きている人がいくらでもいる。そのような人のほうが、うまく人生を渡っているではないか。成功しているではないか。

  それを見ていると、もう気を使うのがバカらしくなった。もう気を遣うまいと決心した。人がどう見るかを気にしないで生きていこうと心に決めた。裸のままの子供の部分では、傷つくだけです。疲れます。
 あと、頼りになるものはAの合理性だけ。社会に対しては、クールになることで対応します。

  「社長と言っても、お金儲けが上手な人だし、自分たちがいるから社長でおれるんでしょう」、「教授と言っても、専門のことしか知らないのでしょう。第一、自分がなりたい人でしょう」、「大臣と言っても、自分でなりたいとてを挙げた人でしょう。頑張るのが当たりまえでしよう」、ギブアンドテイクの関係で社会に対応します。

  一方、自分の不安や不満があれば、不安定になります。出来るだけ、不安や不満は少ないに越したことはありません。これもクールに処理します。自己弁護、自己説得、自己合理化と、さまざまな理屈でもって、自分を透明に、感情の少ない人間にと作り替えます。「クールさん」の多くが「無感動さん」であるのは、当然のことと言えます。

  常に不安をクールに処理しよう、処理しようとしますので緊張を強いられます。肩が凝り、頭が痛くなるなど自律神経失調症の症状も出てくるでしょう。

  一方、D(不満さん)でクールさんになることもありますが、数は少ないでしょう。D(不満さん)さんは気を遣うことがないのが特徴ですし、E(人の評価を気にする子供)が低ければ自己反省能力があまりないので自分を変えたいとは思わないでしょうから。

  今の若者のクールさ、無感動さの原因にはこのようなものと私には思えます。豊かな国に育ってたくましさを経験出来なかった。貧しい時は少々のことは平気です。生きていくことが精一杯ですから、かえって生命力が鍛えられます。多少傷つき傷つけあっても、そんなことに本人も周りもかまっていられない。あまり心の病気がなかった。

  一方、今日の日本で育ちつつある若者には、なまの生命体験がありません。コンクリートの街と偏差値とファミコンゲームです。食べる苦しみがないだけに、少しのことにも敏感に感じます。だから、クールになることによって、無感動になることによって自分を守ってはいるのではないか、そのような気がします。

  いずれにせよ、クールになれば、感情を失います。子供の部分はアイデンティティーへの入り口でもあるので、これを全く押え込んでしまえばアイデンティティーも失います。生きているという実感も失われます。自分がなくなります。

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