心療内科医笹田信五カウンセリングルーム







  老人会から「健康についての話をしてください」という依頼がときどきあります。幹事さんは総会の余興にでもと軽い気持ちで言って来られるのでしょうが、依頼される方はそう簡単なことではありません。

  「あまりお役に立つ話はできそうもありません。どなたか他の人を捜してください」と何とか逃げようとしていました。老人会からの依頼は、ほかの講演と違って難しいものがあります。

  演壇からふと目を上げると、80歳前後の方がずらりと並んでおられる。80歳まで生き、元気に講演会場まで自分で来れる。50代、60代で突然死・過労死している時代ですから、それだけでも、健康の優等生です。良い遺伝体質とライフ・スタイルをされていた証明のようなものでしょう。この方々にどんなお話しをすれば良いのか、困ってしまいます。

  しかし、本当に難しいのはもっと違ったところにあるのです。つまり、死という問題が全面にでてくるからです。考えて見れば、健康の話は矛盾しています。人間は、「いつまでも若く美しく」あるはずはないのです。いつまでも健康? そんなはずはないでしょう。


  これが、40代、50代の方が対象だと、がん・脳卒中・心筋梗塞で犬死にしない方法を力説すればすみます。死は遠い将来の問題で、むしろお互いに、あまり深くは考えたくない。そんな深刻で暗い話は嫌だという気持ちも大いにありますから避けて通れます。

  もっとも、誰も本気ですぐに死ぬとは考えないので、力説している割りには真剣に受け止めていただけなくて、効果が今一つという弊害もありますが、医学の問題として話せるので比較的やりやすいものです。

  しかし、高齢の方が対象のときには、そうはいきません。死はそう遠い問題ではありません。いつまでも健康にというのは、挨拶としてはいいとしても、医者が話をする内容としては、私自身がそんないいかげんな話は嫌になります。医学がこの問題も解決しておいてくれれば一番良かったのですが、医学のどこを探しても明快な解答などありません。

  それからもう一つ、年を取るということは、どういう意味があるのかということです。一般的に見ると、今の世の中では年を取ることに余り意味はなさそうです。

  「若さこそすばらしい」、そのような傾向です。スポーツを例に取れば、これは言うまでもなく若い方がいい。オリンピックを見ればわかります。中学生や高校生が活躍しています。30歳を越えた選手は、もう美談です。プロ野球や相撲もそうです。最近はやりのサッカーもそうです。


  歌手や俳優もおおむねそうですね。なかには、いぶし銀のような年輪を感じさせる人もいますが、若さを売り物にしている方が圧倒的に多いですね。
仕事もそうです。古い考えは非能率的で邪魔になるだけで、やはり若さです。早さもセンスも違います。若さが歓迎されます。

  現在の日本では、若さの美点ばかりが全面にでて来て、年を取ることの良さは探すのに骨が折れるという状態です。本当に年を取ることの意味、素晴らしさはないのでしょうか? 

  男性であれば、定年が来ます。自分の会社でも息子に譲らねばなりません。全盛期の華やかさに比べて、定年後は見劣りがします。見劣り程度ですむ人はまだ幸いでしょう。必要とされなくなり、振り返ってくれる人も少なく、若い人たちは忙しそうに通り過ぎて行きます。

  女性の場合ですと、子供達が巣立ってしまえば、自分の役割がなくなります。取り残されて行く感じに気持ちも暗くなります。さらに体力が落ち、病気にもなりがちで、ついには人のお世話にならなければならなくなります。

  「寝たきりにでもなったら」、と考えると自信がなくなり、「自分の人生とは何だったのだろう」という思いも起こり、自分の存在が価値あるものだという気持ちの張りも輝きも失われて行きます。

  これは暗いですね。何とも言いようがないほど暗いです。日本の繁栄を支えて来た方々が、老年になり、皆の感謝と敬意を受け、安心と満足の余生を送れても当然ではないでしょうか? その資格はあるはずです。


  何かがおかしいですね。死の問題といい、年を取ることの意味といい、変な感じがします。それは事実に基づくものでしょうか? 

  良く考えてみれば、確かにおかしいのです。最も大切な問題が真剣に考えられていません。
  「生まれる前、私たちはどこにいたのでしょうか? あるいはどこにもいなかったのでしょうか? 死んでからはどこへ行くのでしょうか? あるいは行かないのでしょうか?」、これは最も大事な問題なのではないですか。

  「どこから来たのかわからない。どこへ行くのかもわからない。そんな電車に乗っていれば、あなたは不安になりませんか?」、皆と一緒だから安心だではなんとも頼り無い人生になりませんか。

  このような状態になった原因は何なのでしょうか? それは、「人間も物質である」という唯物論です。私たちは、小さいときから唯物論的な考え方をするように教育されています。これが、最大の問題点です。

  「物質の反応から、生命や精神が生まれた」と考えますので、この考えでみれば人間も物質ですから、物質的に最も優れているのは若いときです。若さが価値あるものとされるのは当然でしょう。

  老いるということは、物質的に見れば壊れていくことですから、劣ったものになっていくことです。さらに、壊れてしまうことが死ですから、唯物論的に見れば、死は全くの無価値になることを意味します。物質の反応から生命や精神が発生しているのですから、物質が崩壊すれば生命も精神も消失するだけです。


  物がだんだんと古くなり、壊れていって、最後は壊れてしまう。年老いて死ぬということは、唯物論の立場からすれば、そういうことです。

  多くの人は、自分は唯物論を信じて生きているとは意識していません。この時代全体が、科学万能の「物の時代」ですから、自分で深く考え、自分の目で見ようとしない限り、自然と無意識のうちに唯物論者になってしまう時代を生きています。

  確かに、神様が支配していた時代は芳しいものでありませんでした。しかも当時の神様は人間が人間を支配するためにでっちあげた神様でした。人間を支配するだけで、飢えや災害は解決されませんでした。

  しかし、科学はそれらを解決しました。精神論では役に立ちませんでしたが、唯物論は大いに役に立ちました。議論は必要ではありません。目の前に繰り広げられる科学の成果をみれば良いのです。

  月へも行きました。抗生物質も開発しました。農作物も改良しました。電気製品も家の中にあふれ快適な生活です。電車も車もあります。ここまで来ると議論はなくなります。物の世界一色になります。すべてが物でてきていることが当然となります。

  そして、「人間も物でできている」ことに何の疑いも起こらなくなりました。医学の進歩はいやがうえにも、人間も物によってできていることを見せつけます。世界も人間も物質であるという常識が完成したのです。

  「物の時代」とは、物が豊富にあふれているということだけではなく、「人間も物質である」という時代です。しかし、「物が豊かになること」と「人間も物であると考えること」とは根本的に全く異なることなのです。これが今日の日本だけではなく、ルネッサンス以降の現代文明が陥った致命的な誤りでした。

  人間を物と考えれば、生き生きとした人間性の展開も、優しくて美しい精神の世界も息づくことはできません。それらは、時計でも巻き尺でも測れません。そんなことはたいしたことではない、と思う人も多いかも知れませんが、これは決定的なことなのです。

  物の基本的な特徴は、長さと重さと速さが測定できることです。それによって初めて、何時でも、どこでも同じ結果がでるという再現性が保証されることになります。つまり、世界のどこでやっても、いつの時代であっても、誰がやっても、同じ結果がでないといけません。

  それが再現性ということであって、再現性のないものは科学にはなりません。私たちが持っている科学的な知識や情報はこうして得られたものです。

  確かに、長い年月をかけて、海の中でアミノ酸のようなものができて、細胞になり、生物になり、最終的には人間になったという仮説はあります。しかし、生命が物質から発生したという唯物論は、あくまで仮説です。

  私の心や精神は測定出来ません。心に重さがありますか? ものさしで測れる長さがありますか? 感動や優しさ、さらに悲しみや不安を物として測れますか?

  私の喜びを50g分けてあげましょう。私の悲しみは大きくて30mもあり部屋の中に入りません。私の怒りは時速200Kmでもう遥か先へ行きました。そのようなことはありません。それらは最初から科学の対象にはならないのです。物質から私が発生したということは証明不可能なことです。

  すべては物だという仮説を取れば、世界は現在も未来も物質的で無味乾燥な、実に貧弱な世界になってしまいます。

  物質として見れば、人間はたいしたものではありません。小錦さんだって、たかだか300Kgまでで、普通の人は100Kgまでです。この程度の重さの物体の価値はたいしたものではないでしょう。

  物の考えからは、どんなにしても人間の自由や個性を尊重することができません。それらが物でない以上、それらの存在や意味や重要性を、どうして理解できるのでしょうか?

  人間は歯車となり、社会の部品となります。物質的な平等が理想であって、物質的に理解できるものが価値となります。物質的に理解できないものは捨て去られます。そのような社会が発展できないのは当然ではないでしょうか?

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