心療内科医笹田信五カウンセリングルーム


  誰にとっても死は最大の問題のはずですが、「死んだらおしまい」を検証した大学も研究所もありません。「人間も物から発生した」のなら、歳を取るにつれ物として劣っていき、死とは物としての崩壊ですから、最後は本当に無価値になります。それを私たちは検証もなしに信じています。
 

  もしそれが事実でないのであれば、なんという悲劇でしょう。年を取ることの失望感、そして虚無になってしまうという死の恐怖、空しさ。それが間違いだったら。多く人々の失望感と恐怖や空しさが、味わう必要のないものであったとしたら。 


  「死んだらしまい」が事実であろうとなかろうと、死の悲しみは変わりません。しかし、もし「死んだらしまい」が事実ではないのであれば、空しさや虚無からは救われます。悲しさと、空しさは全く違います。


  「死んだらしまい」ということは空しさです。一切が無意味で、虚無です。空しさや虚無感は心身相関を乱す最大のものです。科学の時代です。少なくともできる限り事実から考えてみたいと思います。



    ◆「人間も物です」は本当ですか

  ストレスを対象としない現代医学は、健康医学としては限界のある方法だということを説明いたしましたが、もう一つ根本的な問題があります。それは、科学は、物として測れないものは対象に出来ないということです。

  私たちは、小さいときから「すべては物からできている」という唯物論的な考え方をするように教育されています。この時代が、科学万能の「物の時代」ですから、自然と無意識のうちに唯物論者になってしまう時代を生きています。

  確かに、科学は大いに役に立ちました。目の前に繰り広げられる科学の成果をみれば分かります。月へも行きました。農作物も改良しました。飢えや災害も大幅に解消されました。電気製品も家の中にあふれ快適な生活です。電車も車もあります。物の世界一色になります。すべてが物でてきていることが当然となります。

  さらに、抗生物質が発見され、外科手術も安全にでき、心筋梗塞の治療のように高濃度治療も威力を発揮しています。分子生物学は将来のさまざまな可能性を示しています。医学の進歩はいやがうえにも、「人間も物によってできている」ことを見せつけ、「人間も物である」ことに何の疑いも起こらなくなりました。世界も人間も物であるという常識が完成しました。

  「物の時代」とは、物が豊富にあふれているということだけではなく、「人間も物である」と考える時代です。しかし、「物が豊かになること」と「人間も物である」と考えることとは根本的に異なることです。これがルネッサンス以降の現代文明が陥った致命的な誤りだと私には思えます。


◆心は科学の対象にはなりません

  物の基本的な特徴は、長さと重さと速さが測定できることです。それによって、世界のどこでも、いつの時代でも、誰がやっても、同じ結果がでるという再現性が保証されます。再現性のないものは科学にはなりません。私たちが持っている科学的な知識や情報はこうして得られたものです。


  しかし、どのような方法も欠点があります。科学も人間にとって最も大事なものを排除してしまうという欠点があります。

  生命は測定できません。草木が生長して、花が咲くスピードや花の大きさは測定できますが、生命そのものは何であり、何gで、何pか、測れますか。

  春になれば花が咲くのは当たり前のように思っていますが、一粒の種が、光と水を与えられることによって、芽が出て成長する。「生命とは何ですか」と尋ねられても、分かりません。種の中を探しても、花を分解して顕微鏡で見ても、生命そのものは見えません。

  人間も生命です。しかも1個の受精卵から分裂をくり返し75兆個というとてつもない細胞で生きています。私の身長や体重は測れます。年齢も数えられます。しかし、私の生命そのものを測ることはできますか。

  さらに、私の心や精神は測定出来ません。心に重さがありますか。ものさしで測れる長さがありますか。感動や優しさ、さらに悲しみや不安を物として測れますか。

  私の喜びを50g分けてあげましょう。私の悲しみは大きくて30mもあり部屋の中に入りません。私の怒りは時速200Kmでもう遥か先へ行きました。そのようなことはありません。それらは最初から科学の対象にはならないのです。

  脳波は測定できます。しかし、その脳波が、「日本の将来を心配している」のか、単に「昼御飯は、そばにしょうか、うどんにしょうか」と迷っているのか分かりません。電流は測れても、意味は測れません。

  このように科学の方法は、私たちの一面だけしか測定できません。私たちの生命や夢や希望は測れません。物が豊かになった現在、最も大事な価値は私たち自身です。科学の方法では、私たちの生命や心や精神の価値は評価できなくなります。心や精神は体得によってしか理解できないものです。


◆唯物論は科学ではありません

  根本的な問題は、「生命や人間の心や精神も物から発生した」と考える唯物論なのです。長い年月をかけて、海の中でアミノ酸などができて、細胞になり、生物になり、最終的には人間になったというのが唯物論の考えです。この考えを持っている限り、人間も車や飛行機と変わるところがありません。

  「生命も人間の心や精神も物から発生した」という考えからは、どんなにしても人間の自由や個性を尊重し賛美することはできません。生き生きとした人間性も、優しくて美しい精神の世界も息づくことはできません。金や銀やダイヤモンドの方が価値がありそうです。物こそすべてです。

  さらに問題なのは、それは真実かということです。「証明されていますか」ということです。
物から物が生まれることは科学の方法で証明できます。しかし、物から生命、さらに心や精神が発生したということは、証明できません。測定できるものから 測定できないものが発生したというのは、証明しようがないからです。

  ですから、科学イコール唯物論ではないのです。唯物論は科学の限界を無視し、すべては物から発生したと独断する極端な考え方です。

  そんなに、深刻に考えなくても良いのではないかと思う方もおられるでしょう。しかし、地球の周りを太陽が回っていたと確信していた時代もありました。水平線のむこうは滝になって落ちていると思い込んでいた時代もそんなに昔ではありません。

  太陽がどこを回っていようと、水平線のかなたが滝であろうとなかろうと、私たちの人生にはそんなに大きな違いはないでしょう。しかし、「人間も物から発生した」かどうかは、根本的な問題です。

  ですから、唯物論から自由にならなければなりません。唯物論から自由になれば、科学の正しい使い方が分かります。科学は素晴らしい方法です。ただ、科学の方法だけでは、心身医学はできないということも分かります。

  もし、「私」が身体から発生したのであれば、死とともに「私」も消滅します。まず、「私」はどこにいるのでしょうか。


  手や足は切断されても、「私」の一部分消えることはありません。手や足に「私」がいるのではありません。

  心臓も、腎臓も、肝臓はどうでしょうか。それらの臓器は日常で移植手術されていますが、移植しても「私」は消失しませんし、臓器をくれた人の人格が乗り移ることはありません。心臓や腎臓などの臓器にも「私」はいません。

  最後に残るのは脳です。これが最も可能性がありますが、脳から「私」が発生したのでしょうか。しかし、脳の移植はできないので分かりません。違う面から考えてみましょう。

  最初は誰でも、精子と卵子が結合した1個の受精卵です。もし、初めから「私」が細胞の中にいたのなら、精子の中でしょうか。卵子の中でしょうか。仮にどちらかにいたことになります。そして、1個の受精卵は、分裂して2個になります。さらに4個、8個となり、最後は75兆個になります。「私」も分裂し75兆個になります。

  手足やいろいろな臓器のなかで75兆個に分断された「私」が存在することになりますが、75兆個に「私」が分断されることもあり得ないことですし、この考えだとすべての臓器に「私」が存在することになlます。

  しかし、手や足や様々な臓器に「私」が存在しない以上、脳だけに「私」が存在することはできません。


  次には、細胞は分裂しても「私」は分裂しないで、神経細胞となる細胞に残るとしましょう。しかし、これでは最後まで、1個の神経細胞の中にいることになります。
たった1個の神経細胞の中にいて、目や耳や痛みや熱さなどの身体全体からくる感覚の情報を把握し、適切な行動の指示を出しているというのは、不可能です。1個の細胞に全神経細胞が集中することなどできません。

  精子か卵子の細胞のなかに、最初から「私」がいたということは、考えられないならば、受精卵が分裂を繰り返し、脳ができて、そこから「私」が自然発生したということはどうでしょうか。

  脳は140億個程度の神経細胞からできていますが、これらの一部が重なり合うなり連結しあうなりして、「私」が自然発生するということは考えられるでしょうか。
かりに「私」を発生させるために、10億個の神経細胞が集まったとしても、しょせんは1個1個の細胞の集まりですから、どの細胞が「私」のどの部分に相当するのでしょうか。「私」は10億個に分解可能なのでしょうか。そんなことはありません。「私」はただ一つです。

  さらに、神経細胞の連結から起こることは、連鎖反応の繰り返しです。ある刺激が来て、それに反応するという繰り返しです。過去の記憶を取り入れて反応するので複雑にはなりますが、基本的には連鎖反応のようなものです。
「私」は判断する主役であり意欲です。連鎖反応からは発生できません。

  では、神経細胞は電線のようなものですから、束になった電線から電磁波のようなものがでて「私」が発生するのでしょうか。しかし、電磁波なら、単なる強弱だけです。「私」は悲しみや喜び、平和や愛という意味の世界を生きています

  量の世界から意味の世界は発生できません。電線を束ねただけでは、「私」は発生できません。たとえば脳波は確かに記録できますが、その脳波の動きが、誰かに恋いこがれているのか、ただ昼御飯は何にしようかと考えているのかは分かりません。

  このように、「私」が神経細胞のなかにいたということも、神経細胞から自然発生的に「私」が発生したということも証明できません。身体から「私」が発生したということは証明できないのです。ということで、「死んだらおしまい」には根拠がありません。

  しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、行動しています。身体から「私」が発生してはいないのですから、身体の消滅によって「私」が消滅することはありません。

  ただ、ここでいう「私」は「本当の私」です。「記憶の私」ではありません。「記憶の私」は脳に記憶されていますので、死と共に消失するでしょう。その意味でも、「生かされてる医学」のトレーニングで「本当の私」を生きたいと思います。

  以上のように唯物論はその正当性を証明できません。にもかかわらず、唯物論は常識となっています。そして、年老いてゆく寂しさ、死んだらしまいという空しさをまき散らし人生を暗くしています。このことが心身相関に与える影響は甚大なものであり、健康になれないばかりか、「心の時代」の障害になっています。

  身体は確かに衰えます。だからと言って、「私」の価値が衰えることはありません。たとえ病気になり、寝たきりになったとしても、どんなにみじめに見えても、「生かされてる世界」から見れば、「私はかけがえのない存在」です。「何もない私が素晴らしい」のです。それが分かって始めて人生が歓べるのではないでしょうか。
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