生かされてる医学のカウンセリング(性格分析1)
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タイトル 死を直視できなければ、漠然とした不安で人生が終わる
投稿日: 2014/03/20(Thu) 23:07
投稿者sasada

朝の診察のときに、「夜、息苦しくなるのですが、大丈夫でしょうか。」という質問を受けました。

ご本人は、意識しておられないのかもしれませんが、これで、3度目です。

「病院で、精密診察をしてもらわれて、異常がないということですし、道場でも、毎日診察して異常がありませんので、大丈夫です。」と同じ答えを申し上げました。

胃がもたれる、首の後ろが痛い、非常に疲れる、めまいがするなど、身体の不調を訴えられる方は、少なくありません。

「病院で精密検査をして異常がなければ、それは、心身症です。」、いつも繰り返す答えですが、なかなか納得してもらえないことが多いです。

一つには、医学的な理解不足があります。もう一つには、その背後に、死の不安があります。

医学的な理解は、死に至るような重大な病気は、末期まで無症状だということです。

人間の身体は非常にうまくできています。

例えば、高血圧は、殆ど無症状です。血圧が、200mmHgになっていても、自覚症状は殆どありません。もし、血圧が200mmHgになれば、激しい頭痛が必ずあるというのなら、誰も、脳出血で死にません。

心筋梗塞は、狭心症という胸の痛みがなくて、突然起る場合も少なくありません。狭心症がある人も、いつも胸痛があるわけではありません。胸痛がないときは、心電図も正常です。

心筋梗塞は、動脈硬化が起こり、血管が閉塞して起こるのですが、動脈硬化は何十年もかかって進行します。10%の閉塞の時には、10%の痛み、40%のときには、40%の痛み、80%になれば、80%の痛みというように、痛みが出現するのであれば、誰でも、気づくでしょう。そうではなくて、閉塞の最後の段階まで無症状なのです。

がんも同じです。何十年もかかって、がん細胞は大きくなります。症状がでるのは、最終段階です。

最近は、人間ドックや検診が普及しましたので、あまりないのですが、私が医者になったころは、無症状で来られたのに、検査をすれば、腎機能低下が強度で、すぐに透析しなければならないというな場合もありました。

腎臓も、肝臓も、肺も、末期にならないと症状がでません。

さまざまな症状が、本当に重大な病気から来るものであれば、末期ですから、病院で検査をすれば、必ず発見されます。見落とすことは、ないはずなのです。

では、この症状は何なのかということですが、それは、心身相関の悪化です。確かに、症状はつらいです。でも、今のうちなら、心身相関を改善すれば、治ります。

「今のうちに、心身相関を改善しなさい。このまま、心身相関の悪化を続ければ、最後には、やはり、本当の病気になりますよ。」という警告です。このことについては、「がん・脳卒中・心筋梗塞で犬死にしないためのテスト」を出していますので、読んで見て下さい。

その次の問題です。この不安の背後にあるのは、死の問題です。死を直視できないと、死は漠然とした不安となって、背後から迫ります。

漠然と拡大した不安は、かぎりなく、際限のないものです。少し息苦しくなったり、めまいがしたり、疲れを感じれば、不安が来ます。

死の不安であると意識していれば、医学的に死ぬような病気はないと理解できれば消えます。しかし、意識されていない場合は、何かあるごとに、不安は頭をもたげます。こうして、軽い抑うつ状態で、人生が消費されていきます。

死は、最大の苦痛です。これを越える苦しみはありません。最も、嫌悪すべきことです。

直視したくはありません。何とか、忘れていたい。何とか、目をそむけていたいと誰もが思います。

社会や文明というものは、死の不安を緩和するためのもの、死をごまかすための巨大な装置のようなものと、と言うこともできるぐらいだと思います。

事実、私たちは、日常生活で、常時、死をごまかして生きています。

100%、私たちは、死にます。これほど、確実なことはありません。そんなに長くは生きれないのです。やがて、死ぬのです。もうすぐ、死ぬのです。

今、こうして生きている私たちも、100年後には、誰一人残っていないのです。

この現実は、直視したくありません。この現実だけは、実感したくありません。

いや、むしろ、直視できないのです。実感できないのです。

もし、直視し、実感できるのであれば、こんな生き方はしていないはずです。

こんな生ぬるい、あいまいな、ふ抜けたような生き方はしていないはずです。

大きな病気をした人が、回復して、どんなに健康であることが素晴らしいかを実感した、感謝したと言っているのは、よく耳にすることです。

また、がんで、死を直視せざるを得なくなった人が、一日一日が、どんなにか、いとおしく、美しいものかということを、書き残されたというようなことも、しばしば聞きます。

死は、最大の忌まわしいものであるはずなのに、どうしてでしょう。強がりでしょうか。自己説得でしょうか。

そういう場合もあるかもしれませんが、それだけとは思えません。真実かもしれません。死を直視し、実感すれば、世界は、全く違うのかもしれません。

事実を学びましょう。そして、真実の世界を見ましょう。

私たちは、自分で生きていると思っています。これは、100%の妄想です。私たちは、100%の妄想の上に、人生を、そして、社会を築いています。

そこに、事実はありません。

人間関係や利害関係ばかりに、膨大な時間とエネルギーを消費して、人生を終わろうとしています。

そこに、真実はありません。

私たちは、大きな生命の世界で生かされて、社会を営んで生きている種族です。

大きな生命の世界で生かされているという医学的事実を学びましょう。

Fzero体験をして、Yuの自分を発見しましょう。

そうすることで、死を直視できるようになりましょう。真実の世界が見えるようになりましょう。

ただ、それを、一人ですることは容易ではありません。不可能かもしれません。

だから、ISC)で、サポートしようとしています。

ISCのサポートがあっても、容易でないことには変わりありません。

しかし、折角の人生です。生ぬるい、あいまいな、ふ抜けたような生き方で、人生を終わりたくはありません。

漠然とした不安ばかりが、広がる人生で、終わりたくはありません。

生涯をかけて学び、全く違った事実の世界が、かぎりなく広がっている風景を、一緒に、見てみましょう。

皆さんと、一緒に、それを見ることが、私の喜びであり、楽しみです。


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