タイトル | : 現代人の悲劇ーKやPKを救うもの |
投稿日 | : 2014/01/18(Sat) 23:11 |
投稿者 | : sasada |
さまざまな不安があります。
次々と不安がでできます。
しかし、これらの不安は、結局は、死の不安です。
もし、人間が、どんなことをしても、死なないのであれば、情景は一変します。
ご飯を食べなくても餓死しない。
病気になっても死なない。
手足をバラバラにされても、すぐに元に戻り死なない。
首をはねられても、瞬く間に、元通りになり死なない。
歳をとっても、死なない。
どうでしょうか。もし、何をしても死なないのであれば、さまざまな不安は存在するのでしょうか。
私たちが、苦しめられるのは、それが、死につながるからです。
仕事に失敗してどうなるのか。評価が下がり、首になり、給料がもらえず、餓死します。
人付き合いがうまくいかず、嫌われたらどうなるか。昔でしたら、村八分になり、村から追い出されて、野垂れ死にです。
現代では、そのようなすごい村八分はありませんが、孤立と孤独になり、死の不安に脅かされます。
私たちの持っている死生観は、唯物論によるものです。死んだら灰になっておしまいです。虚無です。
自分のことしか考えられない自分なので、孤立と孤独になり、不安が広がります。
不安が広がれば、ますます、不安になり、自分のことしか考えられない自分になります。
そして、この自分を、唯物論で見ています。すべては、物から発生した。人間も、体から発生した。
私が体から発生したのであれば、体が死ねば、私も死にます。恐怖です。虚無です。
この恐怖と虚無の上で、今日も、私たちは生きています。
皆と一緒になって生きていることで、何とか、この恐怖と虚無をごまかして生きています。
だから、皆と一緒は、とても大事なのです。
皆が正しいと考えることが、正しいことであり、皆が良いと言うことが、良いことです。
現代人のように、自我が強くなれば、一人一人が独自に考えるようになると思われますが、事実は、全く逆で、自我が強くなればなるほど、孤立と孤独も強くなるので、皆と一緒にいたくなります。
こうして、自我が強くなったのに、皆と一緒でなければ、不安が強くなるという矛盾と葛藤に満ちた現象が起こっています。
これが、PKの世界です。
皆と一緒に生きるのであれば、N(良い評価や優しさを得るために、自分を抑えて社会適応する良い子ちゃんの自分)でなければなりません。
自我が強くなれば、自分の存在価値の証明も一段としなければなりません。
自我が強くなれば、不安だから、皆と一緒でないと生きれない。自我が強いから、皆と一緒の中で、自分の存在価値の証明をしなくてはならない。比較と競争をしなくてはならない。
皆と一緒の中で、比較と競争をすれば、嫌われ者になり、孤立と孤独になります。
孤立と孤独が怖いから、皆と一緒の中にいるために、良い子をしようとします。良い子をすれば、一応の安心はもらえます。しかし、良い子では、自分の存在価値を証明できません。
この繰り返しで、人生が終わります。
さらに、死ぬときは、一人で死ななければなりません。
皆と一緒は、一時的な安心でしかありません。
死ぬ時は、ごまかすことはできません。孤立と孤独で、一人ぼっちで死んでいかなくてはなりません。
今までの努力や、苦労は何だったのでしょうか。
一方では、良い子になる努力、もう一方では、比較と競争の苦闘。これで、人生が終わるのは、悲しいことです。
もう一度考えて見ましょう。人間の最大の出来事は、本能から自我に目覚めたことです。
本能から目覚めた以上、「衣食住と身の安全」と「自分の存在価値」は、自分で得なければなりません。
衣食住と身の安全を得るために、社会を営んでいます。社会は、衣食住と身の安全を得るためのシステムです。
自分の持てる能力で、社会の分業に参加して、衣食住と身の安全をもらうところです。
自分の存在価値は、大きな生命の世界の中で、大事に生かされていることから来ます。
自分の存在価値を、社会に求めたところから、現代人の苦しみは始まっています。
よく考えてください。社会は、人間を作ったことも、世界を作ったこともありません。
人間が、衣食住と身の安全を得るために作ったものに過ぎません、
しかし、社会しか知らない現代人は、社会に、人間の存在価値も求めざるを得ないのです。
これが、現代人の悲劇ですが、ただ社会しか知らなかっただけなのです。
また、現代人は、自分の頭で考えたことがすべてだと思い込んでいます。
唯物論も、人間が、頭で考えた理屈に過ぎないのですが、これが、真実だと思い込み、死の恐怖と虚無に支配されています。
一言で言えば、自分で生きていると思っている現代人の傲慢さが、引き起こした悲劇なのでしょう。
自分で生きていると思っていることから起こる病気、「自分で生きてる病」です。
現代人の悲劇のあまりの大きさと、原因の単純さに、私は、いつも、唖然とする思いです。
解決は、どうするのか。それが、私の役割です。
解決は、その現代人も、一つの自分だというところからきます。
Kであり、PKです。
KやPKが好きということであれば、解決はありません。
KやPKが、本当の自分だというのであれば、自滅するしかありません。
しかし、KやPKが好きなのでしょうか、本当の自分なのでしょうか。
だからこそ、当てはめなのです。
自己説得ではないのです。KやPKで、自己説得しても無意味です。どこまで行っても、KやPKに過ぎません。
自分の中に、KやPKでない自分が、いるのかどうか。実体として、いるのかどうか。それを当てはめたいのです。
もし、Yuの自分がいて、Yuの自分が好きで、Yuの自分を生きたいというのであれば、現代人の悲劇は、たちどころに消えてしまいます。
無一物、即無尽蔵、自由自在の生き方が広がります。
ただ、KやPKの自分は、過去の殆どすべてであり、あまりにも大きいために、すぐに、KやPKに戻ります。
それは、当然のことなので、繰り返し繰り返し、当てはめです。
繰り返し繰り返し、Yuの自分の発見です。
そういうことですので、今日も、当てはめをやりましょう。
その自分は、Eですか、Dですかか、Nですか、Fですか、Kですか、Sですか?
繰り返し繰り返しやりましょう。
好きな自分は、Eですか、Dですかか、Nですか、Fですか、Kですか、Sですか?
当てはめが上達してくると、Fo体験ができるようになります。
当てはめができないかぎり、Fo体験はできません。
Fo体験までは、まだ遠いですが、希望は芽生えてきます。学び続けましょう。