タイトル | : 未来は何によって見る? |
投稿日 | : 2014/01/20(Mon) 20:18 |
投稿者 | : sasada |
私達の頭の中には、過去の記憶が一杯詰まっています。過去の出来事は、一時的に忘れることはあったとしても消えることはなく、すべて記憶されていると言われています。確かに、老人が、若い頃の思い出を鮮明にお話になるということはよくあります。
考えるということは、この過去を使って考えています。明日や将来のことを考えるといっても、明日を見ることができる人は一人もいません。すべて、過去の記憶からの想像です。
過去の出来事は、「世間体」と「我」でできています。だから、私達は、どんなに考えても、「世間体」と「我」ばかりなのです。
頭の中に入っている情報が、「世間体」と「我」の過去ですから、そこからどんなに将来のイメージをしようとしても、新しいイメージなど出てくるはずはないのです。
過去は過去として理解しなくてはなりません。なぜ、私はこのような性格になったのか。なぜ、私は行き詰まったのか。なぜ、希望のある未来をイメージできないのか。それらは、すべて過去に原因があるのですから、過去として理解しなければならないのは当然です。
しかし、過去で、明日や将来を考えてはなりません。それは、無意味であるばかりではなく、有害です。「我」と「世間体」の過去で、明日と将来を台無しにしてしまうからです。希望を失ってしまうからです。
それはそうでしょう。明日も未来も、単なる「世間体」と「我」の過去の繰り返しだとしたら、生きていく意欲がでてきますか。希望が息づきますか。
では、「明日と未来は、何によって見るのか」ということです。それは「世間体」と「我」の過去でないものによって見なければ意味がありません。そのようなものが、私の中にあるのでしょうか。私の中にあるものは、過去ばかりではありませんか。
そうです。確かに過去ばかりです。新しいものなど何一つありません。しかし、Fzero(Fo)体験ができます。過去の私でない、不思議な私が体験できます。「世間体」と「我」の過去によって汚染されていない、みずみずしい初々しい私があります。
未来は、Fzero(Fo)体験によって見るのです。この一瞬のFzero(Fo)体験をできるだけ大きく育てて行って、未来を見るのです。いや、見ると言うよりも、自然に視界が広がって見えてくるのです。
今まで、「我」と「世間体」に執着していた私が、「本当の私」だと思っていましたが、それは過去の記憶に支配された自画像に過ぎないのです。「本当の私」は、Fzero(Fo)体験のときの私です。
Fzero(Fo)体験の先にあるものは、Yuの世界です。懸命に、Fzero(Fo)体験を積み重ねていけば、水と太陽を得た植物のように、「本当の私」が成長します。未来が広がってきます。希望が息づいてきます。