タイトル | : 犠牲になるFだから、Fzero体験ができる |
投稿日 | : 2014/04/04(Fri) 11:50 |
投稿者 | : sasada |
「社会適応ができている方は、しっかりと社会適応をしましょう。それが、生かされてる医学の鉄則、現実は変えないということです。」というお話をしました。
「Fzeroにたどり着くまでの間、社会適応で犠牲になるFはどのようにケアすればいいのでしょうか? すべてを壊す方向に行かないか懸念しています。」という質問をいただきました。
2つの点を理解してください。
第一は、社会適応をしていくときに、Fを、より強く実感できるということです。
楽な生活の時には、何が嫌で、何が本心かを明確にできません。自分分析が、できません。
嫌なこと、苦しいことがあるために、なぜ、自分はそれをしようとするのか、何のために我慢しているのか、本当は何がしたいのか、そういうことを明らかにできます。
自分の本心を明らかにするということは、何よりも大事なことなのですが、容易にできることではありません。
自分の本心の明確化の絶好の機会です。
第二点目は、窒息を感じているFはどうしたら良いかです。
窒息を感じているFのすることは、唯一つ、Fzero体験です。
Fzero体験ができるようになるまで、なんとかしてFをなだめておくということではありません。
社会適応をすると、Fは窒息します。
だから、新型ストレスになって、自滅のシナリオへと進んでいくのです。
しかし、生かされてる医学には、Fzero体験があります。
Fzero体験は、いつでも、どこでも、できます。
仕事をしていようが、昼食を取っていようが、通勤していようが、いつでも、どこでも、自分さえおればできるというのが、特徴です。
自分の本心がFであれば、誠に、幸いです。
Fならば、Fzero体験ができるからです。
自分の本心が、E、D、N、K、Sだったら、これは大変です。
社会適応は、EとNです。
Dと、Kと、Sは満たされません。
新型ストレスになり、社会適応もできなくなります。
何よりも、Eを取っても、Dを取っても、Nを取っても、Kを取っても、Sを取っても、心の奥底には、Fが残ります。
自我に目覚めた現代人である私たちは、完全に、Fを捨て去ることはできないからです。
ここでもと言うよりも、ここでこそ、新型ストレスが起こり、自滅のシナリオになります。
いずれにせよ、我慢して、社会適応をしていても、E、D、N、K、Sには、希望がありません。
死ぬまで、このまま、我慢だけの人生が続きます。
これは、つらいです。希望がないことが、一番つらいことです。
しかし、本心がFなら、Fzero体験があります。
窒息しそうになるFなら、Fzero体験ができます。
Fは、希望を感じます。
社会適応をして、窒息しそうになるFだから、追い詰められるFだから、壊しそうになるFだから、Fzero体験ができるのです。
絶望が、希望にかわるのです。
真っ暗な夜に、一筋の朝日が差し込むのです。