タイトル | : KKは、他に欲しいものがあるのだろうか? |
記事No | : 87 |
投稿日 | : 2014/03/23(Sun) 17:42 |
投稿者 | : sasada |
「KKの人は、葛藤する自分があるのではなく、K一つの自分です。K一つですから、自分分析ができないので、いろいろな自分があることに気がつかない。だから、訂正不可能性のまま、自滅していく。」と書きました。
しかし、これは、本当でしょうか。
もっと深い何かがあるのでしょうか。
そうです。KKの人は、なぜ、Kに成功しないのかという問題です。
確かに、成功し続けることは困難です。
でも、それだけの努力をしたのでしょうか。
24時間、毎日毎日、Kで成功するための技術と能力を磨いたのでしょうか。
すべてのエネルギーを、Kのために注いだのでしょうか。
いいえ、そんなことはしていません。
過去を振り返ってください。
適当な努力しかしていません。中途半端です。
Kの鬼になりましたか。いいえ、いいかげんです。
なぜなのでしよう。
そんな中途半端で、Kが成功するはずはありません。
中途半端になった理由は、本当は、Kが好きではなかったからです。
つまり、本当に好きなものが他にあったからです。
勿論、自分で、それを明確にはできません。無意識の状態のままです。
明確に出来ないから、中途半端なKが続いてきたのです。
でも、何かがあったことは事実でしょう。
それは、何でしょう。
生かされてる医学を学ぶ前では、どんなにしても、それを明確には出来ません。
しかし、生かされてる医学を学んでいる今なら、明確に出来るでしょう。
とは言っても、生かされてる医学も、KKのために、自分にとって都合の良いところしか学べていないでしょう。
自分にとってというのは、KKの自分にとってということですから、学んでいないのと変わりありません。
ですから、もう少し、私が、分析を進めましょう。
「現代人は、絶望していることにも気づかないという最悪の絶望状態にある。それは、死に至る病である。」というキェルケゴールの言葉を借りれば、私たちは、何に絶望しているのでしょうか。
ここで、自分分析です。
「Eですか、Dですか、Nですか、Fですか、Kですか、Sですか?」
私たちは、何が得られないから、生きる希望を失っているのですか。
まず、KKの人は、Kではないのです。
先程も言いましたように、Kが好きのように見えますが、Kの成功のために、中途半端な努力しかしていないのですから、本当は、Kが好きなのではありません。
Kは、N(評価と優しさ)を得る手段です。
KがNを得る手段というのは、客観的に見れば、びっくり仰天、奇想天外ですが、KKの心の構造について書いたところを読んでいただければ納得できることです。
KKは、Nが欲しいのです。
でも、そうだとしたら、本気で努力して確実に成功したら、人は嫌々でも賛辞します。ひれ伏します。
普通に考えれば、びっくり仰天、奇想天外ですが、本気でKの努力をすれば不可能ではありません。Kの鬼になればよいのです。
確かに、Kの鬼になったとしても、戦いであり、競争ですから、容易ではないでしょう。
しかし、問題は、本気で努力していないということです。中途半端な努力しかしていません。本気で、Kの鬼になろうとしていないということです。
ということは、Nは欲しいものだが、本気で、Nが欲しいということではないということです。
では、本当に欲しいものは、他にあるのでしょうか。
問題は、かなり深いところまで進んできました。
真っ暗な深い深い海の底を、深海潜水艦で、進んでいくようです。
でも、何かがあるはずです。
もう一度、人は、何を失ったら絶望するのかを考えてみましょう。
何を得られなかったら、生きる希望を失うのかを、考えてみましょう。
E(ご飯)がなくなったらでしょうか。
いいえ、E(ご飯)なら、本気でがんばれば、現代の社会であれば必ず得られます。
FやKを捨てれば得られます。
D(快楽)でしょうか。それも、その気になれば得られます。
FやKを捨てれば、得られるでしょう。
S(人の笑顔が見たい自分)でしょうか。
Sも、FやKを捨て、ひたすら、人のために生きれば得られます。
ところで、既に、KKの人は、本当はKが好きではないということを 明らかにしました。
では、残るのは、何でしょう。
Fが残るのですが、これはどうなのでしょう。
本当に求めていたのは、F(自分でいたい自分)なのでしょうか。
自分は、自分でいたい。そして、自分が、自分でおれなくなったとき、絶望するのでしょうか。
生きる希望を失うのでしょうか。
いいえ、現実を見てみると、多くの人が、絶望したり、生きる希望を失うのは、Fではなく、Eや、Dや、Nや、Kや、Sを得られないからのように見えます。
多くの人の口から出る言葉は、Fではなく、Eや、Dや、Nや、Kや、Sです。
でも、もう一度も、二度も、三度も、見てみる必要があります。
私たちは、自分分析を知りません。
生かされてる医学を学ばない限り、自分分析を持つことが出来ません。
自分分析なくして、自分の心がどうしてわかるでしょう。
まして、E、D、N、K、Sは、いつも見ているものです。
一方、Fは、本当のところ、どういうものか知りません。
知る方法も知りません。
特に、日本人は、皆一緒が良いという国民性です。
Fが育つ環境がありません。
だから、苦しいのは、悲しいのは、空しいのは、生きていく希望がないのは、E、D、N、K、Sが得られないからだと思っています。
しかし、E、D、N、K、Sなら、本気になれば、得られます。
本気になれない理由は、なんでしょう。
これを、本気で考えて見ましょう。
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