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タイトルKKは救われるのか、KKになった理由は?
記事No86
投稿日: 2014/03/23(Sun) 12:08
投稿者sasada
K(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分)だけの人は、いません。

Kは、自分の存在価値を人に認めさそうとする自分ですから、人の上にならなければなりません。

人と同じでは、人の中に自分の存在価値が埋没してしまいますので駄目です。

人以下では、完全に駄目です。

しかし、常に、人の上になることは不可能です。

人の上になろうとすることは、成功しているときでも、嫌われることです。

成功しているので、しかたなく周りはがまんしているだけです。

このKの人が、失敗し続けるKになれば、周りが、がまんしているはずかありません。

日夜、針の筵の上で生きていくことになりますが、Kを捨てることは出来ません。

犬になることなど、到底出来ません。

その状態においても、なお、解決策は、人の上になることです。

KK、つまりK(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分)K(それに失敗し続ける自分)は、自滅のシナリオです。

救うことは出来ません。

救おうとする人がいても、KKの人にとって、救われるということは、その人の上に立つことです。

結局、救おうとする人は、誰もいなくなってしまいます。

ただ、KKの人と言っても、いろいろです。

学べる人もあります。

学べる人は、考えて見ましょう。

「では、どうして、Kになったのか?」ということです。

生まれたときから、Kということはありません。

生まれたときは、E(自己防衛本能)とD(欲求本能)だけです。

すべて、親が世話をしてくれて、生きることが出来る状態です。

親がいなければ、死んでしまいます。

最も、大事なものは、親です。

しかも、単に、安心とミルクを与えてくれるだけではなく、無条件の優しさで包んでくれます。

親も、普通の人間ですから、いつも無条件の優しさではありません。

しかし、子供が生まれた最初の時期は、無条件の優しさです。

これは、Yuの優しさで、この優しさを越えるようなものは、存在しません。

安全とミルクと無条件の優しさをもらうために、子供は、良い子になります。

少し、大きくなると、親は、もう、無条件の優しさはくれなくなります。

親自身も自分を生きたいですし、その次の子供が生まれれば、次の子に手がかかります。

さらに、将来のことを考えると、社会は、競争社会ですから、強い子になるように、後ろ指を刺されない子になるように、育てなければなりません。

その親が、Kの強い親だと、「人は敵だ。負けてはならない。勝たなければならない。バカにされてはならない。」と、子供に言うでしょう。

言葉で直接言わなくても、日ごろの親の言動を見ていると、Kでなければならない。

つまり、Kでなければ、親に認めてもらえない。優しさがもらえないと感じ取るでしょう。

Kの親は、子供を不安にします。

Kは、人を切り捨てていきますから、子供は、自分も切り捨てられるのではないかという不安を感じます。

安全を与えてくれるはずの親が、逆に、不安を与えるのです。

不安を感じた子供は、なおさら、良い子になろうとします。

良い子になることは、親の言うことを聞くことで、親のメッセージは、「人は敵だ。強くなれ、負けるな、バカにされるな。」です。

不安を感じている子に、不安であってはならないというメッセージを与えているのです。

子供は、無理してでも、不安を切り捨てる子にならなければなりません。

これを二重否定と言っています。

親のKのために、子供は否定されるという不安を感じます。

不安を感じた子供は、親の言うとおりにしようとします。

その親のメッセージが、不安な子供であってはならないということですから、自分の不安を切り捨てなければなりません。

これは、むごいことです。

しかし、こうして見てくると、KKの人が欲しかったものは、もう、おわかりでしょう。

KKの人が欲しかったものは、N(評価や愛や優しさ)です。

Nをもらうためには、犬にならなければなりません。

あるいは、S(人の笑顔が見たい自分)の結果としてNが来ます。

どのようにしても、Kで、Nがもらえるはずはありません。

しかし、KKの人は、KでNをもらうことしか知らないのです。

Nをもらうには、犬になるか、Sの結果として来るかなのですが、それは、親に背くことなのです。

親から、安心とミルクと優しさをもらえなくなることなのです。

勿論、KKの人も、大人になっています。

自分で、安心とミルクと優しさを得れば良いのですが、小さいときの不安と、特に、無条件の優しさは、骨の髄にまで染み込んでいます。

まして、失敗し続けるKであれば、世間から安心も優しさももらえません。

孤立と孤独と不安のなかにいます。

体は大人でも、この状態では、心は、子供の心に引き戻されます。

KKが、KKの悪循環から逃れられない理由です。

KKは、欲しいのは、安心と優しさなのに、それを得る方法として、Nではなく、Kしか知らない不幸です。

安心や優しさが欲しい場合、世間にあるのは、一時的な安心や優しさです。

本当に欲しいものは、揺るぎのない安心と、無条件の優しさです。

それは、Yuの世界です。世間には、あり得ません。

一刻も早く、Fを選び、Fzero体験を積み重ねなければなりません。

しかし、KKの人の場合、本当に欲しいものは、世間の一時的な安心や優しさではないということに気づくことすら出来ません。

KKで苦しんでいるので、世間的な安心も優しさも得られないからです。

KKは、客観的に見ると、KとNとの葛藤です。新型ストレスのネックです。

ネックは、N(良い評価や優しさをもらうために、自分を押さえて、良い子になる自分)とK(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分)との葛藤です。

評価や優しさをもらうためには、自分を押さえて、時には、犬のようにならないといけません。

それは、K(プライドの自分)には耐えられないことです。許せないことです。プライドが傷つきます。

しかし、プライドにこだわれば、評価や優しさはもらえません。

この葛藤が延々と続くものです。

この葛藤は、延々と続きますが、自分が欲しいものは、分かります。

評価や優しさであり、一方では、プライドです。

そして、それらを得る方法は、相反するものであることも分かります。

この葛藤のなかで、本当に欲しいのは、どちらの自分なのだろう、

そもそも、本当に生きたいのは、どちらの自分でもないのかもしれない、

そうして見ると、他にも、いろいろな自分がいる、

ということに気づける可能性があります。

自分分析ができる可能性がでてきます。

そして、Fを選択できれば、Fzero体験に入ります。

しかし、KKの人は、葛藤する二つの自分ではありません。

K(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分)と、それに失敗し続けるKですから、Kひとつです。

K一枚の自分です。

一つの自分だけになると、訂正不可能性に陥ります。

赤いサングラスと、青いサングラスを、交互に使っている場合は、世界が赤く見えているときは、今は、赤いサングラスを使っているためだと気づくことが出来ます。

そして、世界は、赤くも青くもないないかもしれないと気づくことができます。

しかし、赤いサングラスだけだと、常に、世界は赤く見え、小さいころから、ずっとそのサングラスをかけていると、サングラスをかけていることすら気づかなくなり、人が何を言おうと、訂正できなくなります。

訂正不可能性の自分になります。

KKの人が救われるかどうかは、このようなKKの心の構造と動きが理解できるかどうかにかかっています。

Kは、教えてもらう人の上に立たなければならないので、学ぶことが出来ないので、無理かもしれません。

ただ、KKの人でも、学べる人がいるかもしれません。

KKの自分の心の中に、学びたい自分がいるかもしれません。