タイトル | : PKは、Yuの子の自分を生きることを不可能にする |
記事No | : 8 |
投稿日 | : 2014/01/18(Sat) 23:52 |
投稿者 | : sasada |
PK(受身のK)は、N(良い評価や優しさをもらうために、自分を押さえて、良い子になる自分)と思っていますが、本当の姿は、K(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分)です。
PKは、Kであることを、明確に理解してください。
Kは、一人で戦います。社会を相手に、自分の価値を認めさせようとするのですから、社会から嫌われます。
それでも、Kは良いのです。実力で、あるいは、策略ででも、自分の価値を認めさせれば、E(ご飯)も、D(快楽)も、人々の賞賛(N)も、自由(F)も、何でも手に入れることができます。
一方、PKは、そんな勇気はありません。良い子を演じます。世間的な良い子になって、自分の価値を、人に認めさせようとします。
世間や、社会の価値観や、道徳を、味方にしています。世間的に見て、私は正しいのです。
ですから、相手が、期待通りの評価をくれない時には、「私は、こんなに努力しているのに、認めてくれない。私は、こんなに自分を抑えて尽くしているのに、分かってくれない。どうしてなのか?」ということになります。
「世間一般から見れば、認めてくれて当然なのに、認めてくれないあなたは、人間として失格だ。」、「人間は、平等なのに、なぜ、私を、ないがしろにするのか。最低の人間だ。」
さまざまな攻撃が火を噴きます。その時に、味方にしているのは、世間の常識であり、道徳です。人間は、かくあるべきだという社会通念です。
Kは、一人で戦います。自己責任です。その点、いさぎが良いと言えるかもしれません。
PKは、社会を味方にしています。後ろには、1億2千万人がついています。社会的に、良い子をしているのですから、社会的に、私は正しいのです。
正しい私を、否定したり、無視するあなたは、間違っているのです。人でなしなのです。依存と攻撃が、常に繰り返されます。
自己責任で、一人で戦っているのなら、戦いに敗れれば、間違いを認めざるを得ないでしょう。
しかし、PKは、「私は、社会的に正しいのです。ただ、私の努力が足りなかったから、うまくいかなかったのです。それに、あなたが、人間失格だから、うまくいかなかったのです。」ということになります。
PKは、自分が間違っていることを、容易には認められません。自分が正しくないということを、受け入れることが困難です。訂正不可能性に陥ります。
「私の努力不足と、相手の人間失格」、依存と攻撃が延々と続き、生涯が終わります。
依存と攻撃の自滅のシナリオから脱するためには、「PKは、Kである。」ということを、明確に知ることです。
そのためには、明確に、当てはめをする必要があります。
「Nのように見えているけども、それは、Kです。」と、明確に、当てはめをする必要があります。
Kと当てはめが出来ない限り、PKの訂正不可能性から自由になれません。「私の努力不足と、相手の人間失格、そして依存と攻撃」という訂正不可能な固執から自由になれません。
Kを当てはめられたら、「Eですか、Dですかか、Nですか、Fですか、Kですか、Sですか?」という当てはめが出来るようになり、さまざまな自分が存在することが分かります。
そして、Fo体験と進むことが出来るようになります。
PKでいるかぎり、Fo体験へと進むことが出来ないのです。
PKのままで、Fo体験をしようとしても、PKを守るためのFo体験になります。それは、切り捨てであり、自己抹殺でしかありません。
自由自在なYuの子としての自分を発見できないのです。Yuの子の自分を生きていくことが出来なくなるのです。
つまり、PKは、Yuの子の自分を滅ぼすものです。Yuの子の自分を台無しにするものです。
勿論、Eも、Dも、Nも、Fも、Kも、Sも、Yuの子の自分を生きることを不可能にするものですが、それらは、比較的わかりやすいものです。少し自分分析をすればわかるでしょう。
それに対して、PKは、繰り返しお話ししているように、極めて分かりにくいものです。それだけに、意識化する必要があるのです。
このことが、どれほど、あなたの人生にとって大事なことかを理解してください。
PKの最も重大な自滅のシナリオは、Yuの子の自分を生きることを不可能にしてしまうことなのです。Yuの子の自分を殺すことなのです。
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