タイトル | : 美しい花 |
記事No | : 21 |
投稿日 | : 2014/01/19(Sun) 23:26 |
投稿者 | : sasada |
参照先 | : http://ttp:// |
「美しい花ですね。心が洗われるようです」、このような会話はありふれていますが、よく考えてみると、そう簡単なことではありません。
美しい花に感動するのはなぜでしょうか。心が洗われるように感じるのはなぜでしょうか。
石や鉄は感動などしません。犬や猫にとっても、花が美しいかどうかはどうでも良いことです。ミツバチにとって、花への関心は、感動の問題ではなくミツです。すなわち食料の問題です。
まして、心が洗われるというようなことは、石や動植物にはないことです。この会話は人間に特徴的なものであるということです。 では、なぜ、人間は、感動したり、心が洗われるのでしょう。教育によって教えられたのでしょうか。普通はそのように考えるのですが、正しいことでしょうか。
まず、考えることについてです。私達は、いろいろなことを考えます。それらは、教えられたからできるのだと思われています。
しかし、教えられるのは、教えられる側に、それを理解する能力が備わっているからです。カエルやトンボに、数学や国語を教えても無意味でしょう。
次に、感じることについてです。感じることは、教えることすらむずかしいものでしょう。感性や感受性は個人的なものですから、教えられるものではないでしょう。
感性や感受性は、自分の中にあるから、だんだん育ってくるのであって、自分の中に全くないないものは感じることはできません。
結局、頭で考えることも、感じることも、人間の能力です。自分の中にあるから、理解できたり感じたりできるのです。
「花が美しい。心洗われる」というのは、まさに人間の持った能力です。では、その能力はどこから来たのでしょうか。
それは、私達が、意識して獲得したものではありません。意識して育てることは当然ありますが、私達の中に初めからないものであれば、私達は、理解することも感じることもできません。
ですから、私の中にあったものであり、私達の意志とは無関係のものです。好き嫌いとも無関係のものです。それは、私達に与えられた能力です。
では、誰から与えられたのでしょう。それは、Yuからです。私達は、60兆個の細胞でできていますが、1個といえども自分で作ってはいません。すべて、Yuによって作られ生かされています。私達は、Yuの子であり、親であるYuに似ています。ですから、それは、Yuの感性です。
「花が美しい。心洗われる」と感じるとき、私達は、Yuを感じているのです。
「Yuとは何ですか。全く分かりません。本当にYuを理解することができるようになるのでしょうか」という質問をよく受けるのですが、Yuは遠い遠い星にあるのではなく、またむずかしい哲学的な話の中にあるのではなく、「ああ、美しい花だ」と感じるとき、まさにYuを感じているのです。心洗われたとき、Yuの子になっているのです。
それを、Fzero(Fo)体験と言っているのです。
ただ、心洗われると言うだけでは、受身的なFzero(Fo)体験です。すぐに、E、D、N、Kによって消えてしまいます。トレーニングとして、意識的に、継続して行わなければなりません。
そうすれば、はじめから存在したものですから、誰にだって実感できるものなのです。
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