タイトル | : 存在の否定体験とYuのかぎりない優しさ |
記事No | : 19 |
投稿日 | : 2014/01/19(Sun) 22:53 |
投稿者 | : sasada |
参照先 | : http://ttp:// |
生かされてる医学では、まず最初に、「Eですか、Dですか、Fですか」、つまり「人生の目的は、安心(E)を得ることですか、快楽(D)を得ることですか、自分を生きることですか(F)?」、「犬になれますか? けものになれますか? どうですか」という質問から始めます。
Fだとなりましたら、さらに、「Nですか、Kですか、Fですか?」、つまり、「人生の目的は、良い評価や愛をもらうことですか、人に自分の存在価値を認めさせることですか、自分を生きることですか?」と問います。
皆さんは、ISCの会員になることを希望されたのですから、当然、Fですが、何度も何度も繰り返して、この問いかけをしましょう。24時間、この問いかけを続けましょう。
じっくり考えると、Fだと決断していても、最初は、すぐにはっきりと答えられないでしょうが、何度も質問を繰り返していくと、「Fです。私は、やはり自分を生きたいです。」と答えられるようになります。
それは、素晴らしいことです。人間として、現代人として、Fを生きなければ、決して喜べないでしょう。
しかし、「それでは、一心にFに進みます。」とは行かないと思います。漠然とした不安が起こります。
Fを選択して、Fに進もうと思えば思うほど、漠然とした不安も強くなってきます。
その原因は、Fのままでは、単なる、わがままでしかありませんから、社会からは、嫌われます。そこで、E(自己防衛本能)が反応し、不安が強くなるからです。
このままでは、Fを生きることはあきらめなければならないでしょう。何とも、残念なことです。残念と言うだけではなく、生きる意欲も希望も失ってしまいます。
しかし、あきらめる必要など毛頭ありません。
まず、Eが強くなった原因を考えて見ましょう。
Eの原因は、3つあります。今の生活の不安、存在の否定体験、死の不安です。
私たちは、本能から自我に目覚めました。自我に目覚めるというのは、私とあなたは違うということに目覚めるのですから、孤立と孤独がきます。さらに、今は、死んだら灰になっておしまいという唯物論の時代ですから、死の不安がきます。
自我に目覚めたことから起こる孤立と孤独、死の不安を、癒し守ってくれるのが親なのですが、豊かな時代になれば親の愛を実感するのが難しくなります。
一緒の食卓で、お腹をすかした子供に、お父さんの分もあげましょう。お母さんの分もあげましょうと、分けてくれれば、愛されていると感じるでしょう。お父さんがいなくても、このご飯を食べさせるために出稼ぎに行っているということであれば、愛を確信できるでしょう。
しかし、豊かなれば、ご飯は当たり前ですから、それで親の愛を確信できません。お父さんがいなければ、お父さんは、私より仕事のほうが大事なのだ。お母さんが勉強のことをうるさく言えば、勉強ができなくては愛されないのだという、条件付の愛になります。
私たちのEは、動物に見られる純粋の自己防衛本能ではありません。根底に死の不安があって、さらに、親からの存在の否定体験によって、その不安は、拡大し、肥大したEになったものです。
今の生活の不安もあります。それは大きな不安材料ですが、世間体やプライドなどで考えているレベルではなくて、ご飯が食べられるか食べられないかというレベルで、客観的に判断していけば、ご飯が食べられないということはほとんどないはずです。客観的な事実より大きな不安があれば、それは肥大したEです。
ですから、現在の不安を、いくら直接に明らかにしようとしても、不可能です。それは、死の不安と幼い日に経験した存在の否定体験が、年月を経ても生き残り、肥大し、現在も支配しているものだからです。
現在の不安の根っこは、死の不安と幼い日の存在の否定体験ですから、根っこを解決しないままで、どんなに戦っても、ますますそれらに振り回されるばかりです。
幼い日の存在の否定体験を明らかにすることの重要さは、存在の否定体験を明らかにするだけではなくて、それが存在の否定体験となったのは、根底に死の不安があったからで、この両方を明らかにすることができるからです。
死の不安がなければ、どんなに親から存在の否定体験を受けても、それほどまでにこたえないはずです。根底に死の不安があるからこそ、存在の否定体験になったのです。そして、そこが、Yuのかぎりない優しさと繋がる点だからです。 存在の否定体験で、幼い日の自分が、どんなに傷つき打ちのめされたとしても、Yuから見れば、かけがえのない大事な大事な存在なのです。
幼い日には、Yuを知らなくて、ただ傷ついただけでした。しかし、その時も、Yuによって生かされていたのです。ただYuを知らなかっただけです。
存在の否定体験は、無条件の愛によってでしか癒されません。たとえ1%でも条件が付けば、それは存在の否定体験になります。
ですから、人の愛によってでは解決できません。どんなに社会的に成功しても、その傷からは自由になれません。それらは、すべて条件付きの存在の肯定体験だからです。
無条件の愛は、Yuからしか来ません。そして、幼い日の自分が、Yuによって生かされていたことを知ったとき、初めて人は、存在の否定体験から自由になれます。
Yuのかぎりない優しさを知るのは、この点でなのです。
自分の存在の否定体験を明確化し、しかもYuによって癒されたとき、Yuのかぎりない優しさを知ったということなのです。
さらに、死は終わりではないというYuの死生観を理解することによって、根源的な死の不安から開放されます。
ただ、この理解は、あくまでも、頭の理解です。実感となるにはそれが、Fzero(Fo)体験が必要です。
さらに、Fは、Fzero(Fo)体験をしない限り、単なるわがままに過ぎません。Fzero(Fo)体験を積み重ねて初めて、本当の自分、つまりYuの子の自分を発見できるのです。
まずは、頭で理解できるかぎり理解し、そして、Fzero(Fo)体験を積み重ねていく、それが、生かされてる医学のトレーニングです。
最初から、一挙に、そこまではいけませんので、まず第一段階として、「Eですか、Dですか、Nですか、Kですか、Fですか?」の質問をし、存在の否定体験を明らかにし、Yuの優しさを頭で理解するということから始めるということです。
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