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タイトル気まぐれの唯心論と貧弱な唯物論
記事No14
投稿日: 2014/01/19(Sun) 17:50
投稿者sasada
私たちは、「自分で自由に考えている」と思っていますが、そんなことはありません。誰かから学んだり、影響を受けたものです。その誰かとは、親や先生や友人、先輩などでしょう。そして、その人たちも、そのまた親や先生や友人、先輩から学んだものです。こうして、綿々と文化が続いています。

しかし、その影響の源は、そう多くはありません。私たちの考えは、ごく少数の天才といわれた人々から来たものです。古今東西の本を読むと、「ああ、私のこの考えは、この人から来たものだ」、「あの考えは、あの人だ」、という経験をよくします。こうして調べていくと、自分独自な考えなど全くありません。

学ぶということは、何かを知るという面もありますが、それよりも遙かに大事なのは、無意識で支配されている過去の考えから自由になることです。もし、その起源が分からなければ、いつまでも自分の考えだと思いこんで、堂々巡りをしてしまいます。自分相手に、人相手に、議論ばかりして人生が過ぎていきます。

その過去の考えで、私たちが最も影響を受け支配されているものは、唯心論と唯物論でしょう。私たちは、日常生活の隅々まで、多かれ少なかれ、唯心論か唯物論で、判断をしています。

過去から自由になるためには、「これは唯心論、これは唯物論」と自覚することが必要です。こう言うと、何か難しいように思われるかもしれませんが、なに、たいしたことはありません。

「精神や心がすべてであり、物質や肉体も、心や精神が作りだしているものである。だから、心や精神によって、どのようにでも変化もするし、作り直すこともできる」、というのが唯心論です。
 
これは、便利です。言いたい放題です。証明はできませんから、言った者勝ちです。どれだけ威厳ある者のように言えるか。つまり、どれだけ人をだませるかということに、成否がかかっています。

一言で言えば、科学的な証明のないことを信じるのが唯心論です。「神からのお告げです」、「悪霊が付いています」、「天罰が下ります」、「先祖のたたりです」、「前世からの因縁です」、いろいろなことが言われますが、そんなことは証明できません。証明する方法がありません。

「私は、空中を飛んだ」という教祖もいましたし、「死んでも死なない。このミイラは生きている。生き返る」と主張する新興宗教もありました。それらはまさに狂気でしょう。Yu(ユー)を理解している方は、だまされることはないでしょう。明白でしょう。

Yu(ユー)は優しさと法則です。空を飛べないことも、ミイラは生き返らないことも、物理や医学で理解できます。Yu(ユー)は厳密な法則でこの世界を作っています。例外や奇跡が起きれば、宇宙も生命も維持できなくなります。

もし、Yuの法則がいいかげんなものであったとしたら、とても安心して生きていけません。第一、いつ心臓が止まるかもしれません。いつ、地球が二つに割れるかもしれません。そんなことは、ありません。人間の生命も、宇宙の動きも、例外のない法則で動いています。

一方、「すべてのものは物質である。精神も心も、物質から発生した」というのが唯物論です。これは、現代人の殆どが、そう考えているもので、圧倒的な影響力を誇っています。

歴史的に見れば、宗教は、唯心論となり、人を縛るもの、支配するものになりました。それに対して、科学と人間性の復活を旗印としたルネッサンスが起こり、宗教を打破しました。唯心論は、科学の前にあえなく脱落しました。

しかし、科学と唯物論は違います。科学は、長さと重さと早さがあるものしか対象にしません。測定できるものしか対象にできないのです。心や精神は、測定することができないので、最初から科学の対象にはならないのです。

なのに、唯物論は、それを無視し、「心や精神も肉体から発生した」と独断しました。これは、科学が私たちに知らせてくれる素晴らしい世界を、極めて貧弱なものにしました。「不思議さ」を、奪ったのです。

海を見ても、山を見ても、空を見ても、不思議なことが一杯です。なぜ、あんなに多くの種類の魚がいるのでしょう。色とりどりで、形も様々。動物も植物もそうです。この多様性は、何なのでしょう。

地球はどうして太陽の周りを回るのでしょう。宇宙にはどれだけたくさんの星があるのでしょう。しかも、秩序正しく回ったり移動したりしているのでしょう。まして、私たちの身体を見ればどうでしょう。60兆個もの細胞が、どうして1個の受精卵から増えて、動いたり見たり聞いたりできる身体になるのでしょう。

これらは、不思議です。科学は、この不思議さを、私たちに教えてくれる方法です。しかし、唯物論は、「すべては物質」という単純な独断により、この不思議さを抹殺してしまいました。その上、「死んだら灰になっておしまい」という虚無を植え付けてしまいました。なんという貧弱さでしょうか。

不思議さは、Yuを知り、Yuを感じる扉です。この不思議さを素朴に受け止めることが、Yuの世界の入り口です。

唯心論に陥った宗教の時代、唯物論になってしまったルネッサンスの物の時代、これらを通り越し、やっと自由に、自分の目で見て、自分の頭で考えることができる時代にたどり着きました。不思議さを抹殺した唯心論と唯物論から自由になれるYuの時代が来ました。

ただ、そうは言っても、私たちはようやくYuの時代の出発点に立ったにすぎません。過去のものとなったが、しかし根強く私たちを支配し続けている唯心論と唯物論。私たちを無意識に縛っているもの。Yuを知ること、感じること、自由に自分を生きることを、著しく阻害しているもの。今もなお、その縛りは強力です。

今もなお、私たちの悩みや不幸は、その影響下にあります。無意識だから困るのです。何を考えても、のたうち回っても、唯心論で意味がありません。唯物論でも解決はありません。しかし、本人は、唯心論や唯物論の限界のために苦しんでいるとは思わないで、堂々巡りばかりしています。

過去の唯心論と唯物論から自由になるためにすることは、まず、「今、私は、唯心論で考えているのか、唯物論で考えているのか」、「今は、どうだ」、「今は、どうだ」といつも意識化することです。意識化さえできれば、Yuを知っているわけですから、唯心論や唯物論のばかばかしさに気づけます。

この自問自答をトレーニングとしてやっていくこと、これは大変大きな成果につながります。不思議さが蘇ります。そして、私たちの本当の目的であるFzero(Fo)体験が,本物になってきます。