タイトル | : 実生活で、自分を生きて社会適応をする生き方 |
記事No | : 127 |
投稿日 | : 2014/04/11(Fri) 22:05 |
投稿者 | : sasada |
いつも指導している方から、次のような問診票がきました。
「昨日の午後は、久しぶりに仕事がなく、帰りに保育園に子供を迎えに行くよ、と連絡しました。
その後、急に、仕事が入り、帰れなくなりました。
FとFの葛藤で、今日の朝は、とっても気分が悪いです。」
そこでお聞きしました。
「帰りに、子供を、保育所に迎えに行こうとしたのが、仕事のためにできなくなったということですが、
仕事のためにということで、これは、Eか、Nですね。
次に、子供を迎えに行こうということですから、これは、Fではなくて、Sなのではないですか?」
「いえ、そうではなくて、午後から仕事がなくなり、自由になれるのがうれしかったのです。子供を迎えに行きのは、帰り道なので、第一ではないのです。
早く会社から、開放されることが妨げられたのが苦痛だったのです。」
「わかりました。それは、確かに、Fですね。良かったですね。」
と申しました。
自分の自由よりも、子供のことを優先させるのが普通です。
子供のことよりも、自分の自由を優先させることが良かったということは、世間の常識から言えば、わがままです。
ISCは、わがまま倶楽部かということになります。
確かに、そうなのです。
ただ、NとSを両立させる方法はありません。
社会適応は、絶対に必要ですから、放棄することはできません。
また、子供のことは、なによりも大事です。
結局、どちらもできないままになり、自滅のシナリオです。
では、生かされてる医学はどうするのかです。
社会適応は、EかNですが、生きていくために必須ですから、しっかり適応しなくてはなりません。
しかし、そうすれば、Fは、窒息します。
社会適応をすればするほど、Fの窒息は強くなります。
Fは、こんな状況を壊してしまいたくなります。
それは、困りますから、Fを救わなくてはなりません。
どうするのか。
それが、Fzero体験です。
社会適応は、しっかりし、窒息するFは、Fzero体験で救うのです。
苦しくならないと、Fzero体験はできません。
人間は、決して、できの良い存在ではありません。
気楽で、快適時に、Fzero体験なんかしません。
苦しいからこそ、Fが窒息するからこそ、Fzero体験ができるのです。
Fzero体験は、社会適応しながらできます。
Fzero体験は、丹田呼吸法をすれば良いのですから、丹田で呼吸さえできればできます。
仕事をしていますから、頭はカラッポにはなりませんが、日々、練習していると、仕事をしながら、丹田に重心を置くだけで、Fzero体験ができるようになります。
このようにして、仕事は、Eであり、Nですが、仕事と、Fを両立させることができます。
Fzero体験は、自分だけでできますので、いつでも、どこでも、何をしていてもできます。
また、子供を迎えに行くときも、Fzero体験はできます。
SとFzero体験も両立できるのです。
自分のことは、Fzero体験で満たされますので、後は存分に、Sをすれば良いのです。
勿論、昨日、仕事をすれば、子供を迎えにはいけません。
子供は、仕事のために犠牲になります。
しかし、これは話せば分かります。
また、真剣に仕事をしなければ、生きてはいけないということを示すことは、決して無意味ではないでしょう。
子供も、これから社会適応をして生きていかなくてはならないからです。
社会適応を軽んじていては、生きていけないということを、子供も、学ばねばならないからです。
それでは、物の時代と同じではないかと思われるでしょう。
しかし、それは違います。
物の時代は、自分を押さえて、社会適応する生き方です。
その生き方は、自我の大きくなった子供にとっては、耐えられません。
自分が窒息し、苦痛だけです。
ニートに代表されるような社会適応ができなくなった無気力、無感動の若者になります。
しかし、今お話している生き方は、Fは、窒息しません。
Fは、Fzero体験によって、自由になります。常に、自分自身でおれます。
しかも、社会適応ができるのです。
自由自在の生き方ができるようになるのです。
これこそ、私たちだけではなく、子供たちに必要な生き方です。
これが、現実の生活における生かされてる医学の生き方なのです。
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