タイトル | : 生かされてる医学的事実の発見ー観念論、懐疑論、唯物論からの自由 |
記事No | : 12 |
投稿日 | : 2014/01/19(Sun) 17:35 |
投稿者 | : sasada |
Fzero(Fo)体験を自分のものにするために、いろいろなことを学んでいきます。いろいろなことを学んでいくに従って、Fzero(Fo)体験が、より本物になっていくのを実感できるでしょう。
今日は、観念論と懐疑論と唯物論という現代人を支配し、虚無に陥らせているものからの自由についてです。
1.生かされてる医学的事実の発見(観念論からの自由) 2.生かされてる事実は必然である(懐疑論からの自由) 3.死は私の終わりではない(唯物論からの自由)
顕微鏡が使用できるようになったのは、150年前からです。これは歴史上の最大の出来事です。
なぜなら、この顕微鏡により、私達は、精子と卵子が結合した受精卵から分裂増殖して、60兆個の身体になったということを、客観的事実として、しかも誰れもが知ることができるようになったからです。
生かされてることを事実として知ることができるようになったのです。
人類の誕生以来、長い長い間、人類は、神が存在して、人間を始めありとあらゆるものを創造したと信じてきました。しかし、神が存在するということが、証明されたことはありませんでした。
神の存在は、最初に誰かが、神は存在すると発言し、周りの人がその言葉を信じ、さらにその次の人が、その言葉を信じていくという、伝承以外にはありませんでした。ですから、神は、観念、つまり人間が自分の頭の中で考え出したものでした。
私達が生かされているというのは、神によってであり、その神は、一切証明のない観念、こんな頼りないことがありますか。
神が証明されていないのですから、私達が、生かされて生きているのか、自分で生きているのか、一切判定できません。
生かされているのと、自分で生きているのとは、180度方向が違う全く異なったことであるのに、その確定ができないのです。本当に頼りないことです。
しかし、「生かされてる医学」においては、生かされていることは医学的事実です。自分で細胞を増やすことはできません。心臓を動かすことはできません。
紛れもなく全ての人が、自分の目で確かめられる客観的事実です。これにより観念論は無意味になりました。観念論からの自由です。
次に、生かされてる医学的事実が、偶然か必然かという問題です。こういう問題になると決まって、「それは偶然とも言えるし、必然とも言える」という懐疑論者が登場します。
しかし、この懐疑論にも終止符が打たれました。顕微鏡は、人体は1個の受精卵から分裂増殖した実に60兆個の細胞によって成り立っていることを明らかにしました。
これが、偶然によって成立することはあり得ません。この事実は明確に必然であることを示しています。懐疑論からの自由です。
そして、必然であることは、必然たらしめている存在がいるということです。それを私達は、Yu(ユー)と呼んでいます。生かされてる事実から、Yu(ユー)の存在が理解されます。
最後に、死は私の終わりではありません。死が私の終わりであるというのは、私は身体、つまり細胞から発生したということを前提条件にしています。これは、物から全てのものが発生したと考える唯物論です。科学ではありません。
科学が対象にできるものは、長さと重さと早さが測定できる物だけです。科学は、測定可能な細胞は対象にしますが、測定不可能な私という存在は対象にはできません。
死が私の終わりであるかどうかは、科学の対象にできる問題ではないのです。ですから、死んだらおしまいは、世界中のどの医学部でも、どの研究所でも一切証明されていないのです。
実際は、私は精子の中にも卵子の中にも、それが結合した受精卵の中にも、私は存在しません。私は細胞の中にも、細胞からも発生していません。
身体は私がもらった物であり、もらった身体が消滅しても、私は消滅しません。唯物論の壊滅であり、唯物論からの自由です。
これらのことが、納得し理解できたとき、生かされてる医学的事実の発見という出発点に立てたのです。
この事実にたって、Fzero(Fo)体験をしましょう。
|