タイトル | : 「我」のままでは悲しい |
投稿日 | : 2011/05/07(Sat) 23:24 |
投稿者 | : sasada |
Fは素晴らしいものですし、人間である以上、Fのない人はいません。本能や条件反射だけで生きている人はいません。誰だって自分はあります。「本当の自分を生きたい」という願いと、それが実現できる時代になったことは、本当に良いことだと思います。しかし、Fは素晴らしいとだけ喜んではおれないことも事実です。
Yu(ユー)を知らなければ、Fはただの「我」です。「我」が強いというだけです。「私は私です」ということは、精神的には集団から離れて1人でいることです。孤立と孤独がきます。しかも、孤立と孤独のなかで閉じこもっていることすら許されません。集団との妥協を強いられます。
社会という集団により、私たちは衣食住と安全を得ています。どんにな社会は嫌だといっても、社会の中で衣食住と安全を得るために、集団と妥協しなければなりません。皆と一体化していれば、そう苦労しなくても得らる衣食住と安全も、1人で確保しょうということは大変なことであるのは当たり前でしょう。
A(警戒)でいくのか、B(自分のための親切)でいくのか、C(自己説得)でいくのか、各自その方法は異なりますが、うまくはいきません。社会と一体化している人たちには大したことではないことも、1人ですから過度になったり、手落ちがあったり、不自然な反応や行動になり疲れ果てます。不安や不満は強まります。特に不安は強いものになるでしょう。Fはただただ自己防衛と不満だけになります。Fは「我」であり「我を振り回す」だけになります。
Fが、孤立と孤独から解放されるためには、Yu(ユー)を知ることが不可欠です。Yu(ユー)の「かぎりない優しさ」を知ることが必要です。それでない限り、Fは素晴らしいどころか、蝶にはなれず蛾で終わります。