生かされてる医学のカウンセリング(性格分析3)
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タイトル 「我」から、Yuに至る道はない
投稿日: 2011/05/07(Sat) 09:48
投稿者sasada

「我」からYuに至る道はありません。「我」からYuに至ろうとすると、「我」のためのYu、「我の増強、我の強化」のためのYuになってしまいます。

Yuに至るには、「我」に支配され、「我」に骨の髄まで汚染されている状態から、いったんF(本当の自分)に戻らなければなりません。Fに戻ってから、Yuに進まなければなりません。

人間として生まれるということは、本能から自我に目覚めるということです。本能から目覚めた自我は、Yuとの繋がりを切断され、この世に投げ出されて、恐怖と不安と不満を味わいます。これが、存在の否定体験です。

この幼い日の存在の否定体験によって、自分のことしか考えられない我人間になります。

利潤追求と生存競争の社会と「死んだらおしまい」という死生観は、E(自己防衛本能)を大きく肥大させて、我人間を強化します。

Eばかりではなく、物質的に甘やかされて育てば、D(欲望)も強くなり、まさに、わがままな我人間になります。

考えるということは、過去の出来事や学んだ価値観から考えます。そして、私たちの過去は、このような「我」を育てる出来事や、「我」の価値観ばかりでできあがっています。

自分のことしか考えられない環境で育っていますから、我人間にならざるを得ないのです。

だから、自分について考えることは、良いことであれ、悪いことであれ、F(本当の自分)とは何か、自分の山はどんなものか、ということについてでも、どこまで行っても「我」の延長にすぎません。

確かに、私たちは、F(本当の自分)です。しかし、それは、「我」によって、骨の髄まで完全に汚染されているのです。

まして、F(本当の自分)は、まだ確実なものとしては、見たことも、感じたことも、生きたこともありません。

時には、「ふとした優しさ」、「自分を越えた優しさ」も感じますが、次の瞬間には、自分のための親切に変質してしまいます。

これが、人間の限界です。これが人間の普通の姿です。

ですから、この状態では、どんなにYuに至ろうとしても、「我の増強、我の強化」にならざるを得ないのです。「我」から、Yu(ユー)に至る道はないのです。

「それでも、F(本当の自分)を生きたいという願いを持っている、その願いは失っていない。」、ということが、私たちが、Yuの子である証拠です。1%のFです。

では、どうすればYuに至ることができるのかということです。それは、生かされてる医学の5つの方法によるトレーニングを続け、「私は、我で真っ黒けである。Fと思っているものですら、我が考えたものだ。」という確認をした上で、次に、頭をカラッポにして、「我」はなくても生きていけるという体験をすることです。

トレーニングを続け、「我」は勿論、自分ではF(本当の自分)と思っているものも含めすべてを捨てきることです。捨てきるというのは難しいことのように思われるでしょうが、頭をカラッポにすれば、良いことです。

「我はなくても生きていける。何もないが、爽やかだ。すがすがしい。」という体験です。それは、ほんの瞬間しか味わえません。次の瞬間には、すぐにまた「我」に落ちますが、繰り返しトレーニングをしていると、また瞬間を経験できます。その瞬間の積み重ねです。

すべてのFを捨て切れば、F(本当の自分)もなくなると心配される方もおられるでしょう。しかし、F(本当の自分)がなくなることはありません。

F(本当の自分)は、自分自身ですから、尽きることはありません。ただ、「我」に支配されていただけです。また、今までFと思っていたことも、「我」が考えたFだったものです。

あるいは、それならば、「Eですか、Dですか、Fですかとか、Fの確認と選択とか、EとFとの葛藤の明確化などと言わないで、最初から、頭をカラッポにするトレーニングをするほうが良いのではないか。」と思われるでしょうが、それは違います。

Fは明確化して、大きく育てなければなりません。大きく育たないと、根っこから「我」を抜け切れないのと、もっと大事なことは、F(本当の自分)を生きたいという願いが大きく育たないからです。

願いはエネルギーです。トレーニングは、エネルギーがないとできません。願いは大きく育てる必要があります。

そのために、「Eですか、Dですか、Fですか」、「人生の目的は、安心を得ることですか、快楽を得ることですか、本当の自分を生きることですか?」、「犬になれますか? けものになれますか?」という質問を繰り返し、やはりF(本当の自分)を生きたいのだという願いを明確化して大きく育てるのです。この課程が必要不可欠なのです。

ただ、トレーニングで、頭をカラッポにしても、それは、一瞬、「我」からFに戻っただけです。「我」に支配され骨の髄まで存在の否定体験に汚染されていた状態から、目覚めた自我に戻っただけです。

このままでは、山の中で暮らす以外にはありません。そのまま社会生活に入ると、すぐにまた「我」に支配されてしまいます。生きていく方向は見えません。

そこで、さらにトレーニングを持続していくと、自分の中に「ふとした優しさ」を発見します。内なるYuです。「ふとした優しさを感じている自分が本当の自分だ。ふとした優しさを生きて生きたい。」、そういう気持ちが明確になったなら、さらに、「ふとした優しさ」を育てるために、トレーニングを続けます。

歴史の中で、社会の中で、「ふとした優しさ」を伝えていくことが、生きる方向になります。「ふとした優しさ」を分かち合い、共に喜ぶ喜びに包まれます。これが、Yuに至る道です。ここまで行かなければ、すべては「我」で終わります。


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