タイトル | : 若者の奇妙な集団無意識 |
投稿日 | : 2011/05/07(Sat) 09:37 |
投稿者 | : sasada |
豊かな時代に生まれた若者の本心は、F(本当の自分を生きたい自分)です。衣食住は人生の目的にはなりません。Fを生きたいのです。しかし、Fは集団から離れて一人になることです。孤立と孤独です。これには耐えられません。
その上に、大人たちは、村八分型集団無意識のE(自己防衛本能)で生きています。衣食住が、生きる目的のときには、この集団無意識も大いに役に立ちましたが、EはFを抹殺することを目的としていますので、Fの人にとっては、最大の苦痛です。
ですから、豊かな時代の若者は、集団無意識を形成し、Fを守ろうとします。Fが集団によって守られるというのは変ですが、変でも、たった一人でEの攻撃にさらされることは、耐えられるものではありません。変な集団無意識ができあがります。
お互いのFを侵略しない、お互いのFには深く干渉しない集団です。そうしないと、大人の強力なEによる集団無意識、つまり世間の常識や道徳にまで日常化した村八分型集団無意識に対抗することはできません。
携帯電話による友人関係、アイドルの共有、少し変わったグッツを持つことによる連帯、しかし、真剣な人間関係はダサイものという表面的な関係、これらは、Fは保持しながら、大人の集団無意識には対抗するという、現代の日本の若者が、やむおえず形成した集団なのでしょう。
だから個性ではないのです。衣装でも化粧でも、個性とは自分を発揮することですが、それは、大人の社会の村八分型集団無意識の攻撃を一手に浴びることなのです。集団を形成し大人たちの時代遅れのEの社会に対抗しながら、自分の中ではFを確保しようという工夫であり発明なのです。
問題は、こうしてFを内在化させて守ったとしても、それは「我」でしかありません。Fが、「我」になっています。
内在化させているので、外へ向かって成長する機会を持つことはできません。外へ向かうということは、この集団からも離れることで、やはり村八分になります。
内に向かったままの「我」の状態が続き、やがては一部の若者では爆発するか、多くの若者ではエネルギーを失い無感動化していきます。
Fを生きるためには、本当の自分を生きて、社会適応もできる生き方が必要です。そのような生き方ができる能力を身につけることが不可欠です。
しかし、その新しい生き方は、生かされてる医学のYuトレーニングによってしか身につけることはできません。
若者は、ただ我を振り回す自己中心型の生き方しかできず、不安と不満と傷ついたブライトという自滅のシナリオに落ちていきます。
この国の若者の多くがこの状態にあることは、やがて国自体が衰退し崩壊していくことを示しています。