生かされてる医学のカウンセリング(性格分析3)
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タイトル 「我人間」の3タイプ
投稿日: 2011/05/07(Sat) 09:28
投稿者sasada

 本能から目覚めた自我は、「我」を選ぶこともできますし、Yuである「ふとした優しさ」を選ぶこともできます。

 しかし、私たちは、自分のことしか考えることができず、安心(E)も、欲望(D)も、プライドも、優しさも、全部欲しいという我の世界、我の社会に生まれてきます。

 「ふとした優しさ」は、「生かされてる医学」を学ばない限り知ることができませんから、実際には、「我」を選択するか、Yuを選択するかという選択肢はありません。「我人間」にならざるを得ないというのが実情です。

 そして、その「我人間」には、3つのタイプがあります。

 居直ったり、傲慢になったり、強くなるぞ!と修行したりして、「我」をますます増強させる「我増強人間」。

 心を閉ざし、問題が起こりそうなところは逃避し、なるだけ人とのコミュニケーションを避け「我」のままでいたい「我のまま人間」。

 「我」の自分が嫌で、辛くて、空しくて、なんとか「我」から脱出したいと思っている「我では嫌人間」。

 「我人間」であること自体が、苦しい生き方になります。

 現代人は、すべて「我人間」ですが、それでも、「我」が少ない人もいますし、貧しい時代の人々は、「我」が芽生えにくいく状態でした。

 集団の社会では、「しきたり人間」、「損得人間」、「好き嫌い人間」などと呼べるようないろいろな人がいますが、「我」が少ない人は、集団の中で生きることができます。

 「しきたり人間」は、世間のしきたりという強い掟をバックにしています。「損得人間」は、お金という価値観をバックにしています。「好き嫌い人間」も、フィーリングという集団無意識をバックにしています。いずれも、「皆と一緒」という集団をバックにして生きています。

 しかし、「我人間」は、「我」ですから、基本的にはたった一人です。孤立と孤独です。自分の意見を言っても、たった一人の自分の意見です。「我」が弱く「皆と一緒」におれる人たちから見れば、変な人間でしかありません。それを思うと意見を言うのにも大変なエネルギーを必要とします。

 集団からは、A(村八分型集団社会)の攻撃に昼夜さらされ、しかも自分の意見を言えば、さらに攻撃の刃が飛んできます。「我人間」であること自体が、苦しい生き方です。

 さらに、その「我人間」の中にも強弱があります、最も苦しいのは「我では嫌人間」です。なぜなら、「我」から脱出したいということは、「我」である自分を否定しているからです。

 A(村八分型集団社会)からも否定されているのに、その上、自分で自分を否定しているのですから、二重の自己否定です。最も苦しいのは当然です。最も悲しく、最も辛い存在、それが「我では嫌人間」です。

 「我増強人間」は、自己を押し通そうとします。不自然なまでに語調を強めて、時には命を懸けるというような芝居がったポーズまでとるでしょう。そうしてでも、自分の存在の正当性を認めさせなくては、生きていけないからです。大変しんどくて、いずれ自滅のシナリオに落ち込みます。

 しかし、このタイプの人は自己否定はしていません。A(村八分型集団社会)と一人で懸命に戦うので、大変しんどいのではありますが、自己否定をしていないので、「我では嫌人間」よりも遙かに楽で強いのです。攻撃的なナルシストです。

 心を閉ざして「我」の殻に閉じこもる「我のまま人間」は、いつまでも世間から逃げ続けることは不可能ですから、いずれは逃げ切れないところまで追いつめられます。

 その時には、対処の方法を全く身につけていないので、ただ静かに自滅するか、攻撃性が出て周りも巻き込んで自滅するかになるのでしょうが、その時期が来るまでは、初めから自己主張する気がないのですし、自分だけの世界で良いのですから、それなりに自分を守れます。静かなナルシストですから、自己否定はありません。

 ということで、「我では嫌人間」は、この地球上で最も苦しい人です。A(村八分型集団社会)から追いつめられ、しかも自分自身から切り捨てられる。これではどこで生きていけば良いのか分かりません。どう生きていけば良いのか分かりません。呼吸すらできません。息すら十分には吸えません。

 「本当の自分を生きたい」ということは、「我」の否定です。「我」から脱出したいと思っている人です。「我では嫌人間」です。「本当の自分を生きたい、自分の山を登りたい」というのは、言葉としては素晴らしいのですが、実体は悲惨の極みなのです。

 ただ、注意しなくてはならないのは、「我」が満たされないから、「我」では嫌だという人の場合です。この人の場合は、「我」が満たされれば、「我」で喜べるのですから、根本は、「我のまま人間」か、あるいは「我増強人間」です。

 その違いは、空しさです。E(自己防衛本能)が満たされないときに感じるものは不安です。D(快楽本能)は不満、F(本当の自分)は空しさです。

 「我」のままでは嫌というのは、本能から目覚めた自我、つまり本当の自分が、「我」を選択して生きるのは、もう空しいと感じているということです。

 現実には、E・D・Fは、混同し互いに葛藤していますので、非常に複雑な心理状態が起こっているような感じがしますが、Eは不安、Dは不満、Fは空しさです。

 もし、「我の増強や、我のままでは嫌だ。空しい。」と感じるのなら、大変な道を選んでしまったのです。引き返せるなら、引き返したほうが楽です。皆と行くか、「我」を主張したり、「我」に閉じこもるか、いずれにせよ、地獄のような自己否定と空しさからは逃げ出すほうが良いです。それがお勧めです。

 しかし、それができないというのなら、残された道は一つしかありません。「我」の選択をやめて、「ふとした優しさ」を選択することです。

 生かされてる医学の5つの方法によるトレーニングをして、「ふとした優しさ」を育てることです。「Yu人間」へのトレーニングです。ここまで来たのなら、もうこれ以上、「我」に投入することは無意味です。「我」への投入は放棄して、ひたすらに、全力を込めてYuへ投入することです。夜の悪夢が恐ろしければ恐ろしいほど、夜明けの空は明るく優しいでしょう。


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