タイトル | : 人間は最低の種族ですが、絶望する必要はありません |
投稿日 | : 2012/03/10(Sat) 20:04 |
投稿者 | : sasada |
本能から自我に目覚めた、これが、人間の基本点です。常に、この基本点に戻って考えてください。
私たちには、さまざまな問題があります。社会にも、さまざまな問題があります。世界にも、さまざまな問題があります。
すごく複雑で、すごく難しそうで、解決には、すごい能力やとびっきりの学歴を必要とするように見えるものもあります。
国際紛争とか、金融システムの破綻とか、いかにも、普通の人の能力では、理解すらできない、高級な問題のように見えるものもあります。
しかし、すべての問題は、人間が、本能から自我に目覚めたということから起こります。
本能から自我に目覚めた人間は、「衣食住と身の安全」と「自分の存在価値」を、自分の手で得なければなりません。
犬やネコやサルでも、餌を確保するためには、自分の縄張りを必死になって守ります。
ただ、動物は、本能によって生きていますので、不必要な殺害や奪略や支配はしません。
人間は、本能から自由になったので、際限のない殺害、略奪、支配を繰り返す種族であるという点が違うだけです。
やっていることは、餌を獲得するという動物に共通なことと、肥大した自我が、自分の存在価値を誇示するために、無用な戦争や支配をしているという動物以下の次元をしているだけです。
本能から自由になることは、自由を正しく使いこなす能力を持たなければ、動物以下になるということです。それを、人間の歴史は証明しています。
人間の歴史を見ていれば、人間であることに絶望するかもしれません。人間として生きることに希望を失うかもしれません。
K(自分の存在価値を人に認めさそうとする自分、人を支配しようとする自分)の人なら、当然と感じるかもしれませんが、優しい心を持った人ならば、生きていくことを、つらく感じることでしょう。
優しいがゆえに、優しさが好きなゆえに、人生がつらくなり、生きる気力を失うとしたら、あまりにも悲しいことです。
そのような心を持った人には、是非、心身医学を、学んでいただきたいのです。学んでいただければ、全く違った風景が見えてくるからです。
自我に目覚めても、Yuを知っていたら、何も恐れることはありません。
私は、Yuの子であり、世界は、Yuの世界です。
お父さんも、お母さんも、周囲の人も、社会の人もYuの子です。
酸素も、水も、太陽も、生きるために必要なものは、皆、与えられています。
死も、私の終わりではありません。Yuに戻るだけですから、虚無ではありません。
しかし、Yuを知らなかったとしたら、どうでしょう。
幼い私は、弱く無力で、親や社会に頼るしか生きていくことはできません。
私は、気に入られているのだろか。兄や弟、姉や妹のほうが、気に入られているのではないだろうか。
社会の人は、どうだろう。
比較と競争です。
負ければ、孤立と孤独になり、最悪は死ぬという恐怖が襲います。死は虚無です。
事実は、どちらでしょう。
目の前の世界は、比較と競争であり、虚無です。だから、これが事実です。
しかし、そうでしょうか。
目の前の世界の人は、皆、自分で生きていると思っています。
自分で生きている?
それは、事実でしょうか。
自分で生きているとは、人間が考えたことに過ぎません。
人間が、正確な医学の知識を手に入れたのは、150年前からです。150年前とは、明治維新の時代です。
それまでは、私たちは、人間は、細胞からできているということを知りませんでした。
自分で生きているのか、生かされているのかは、事実の問題ではなく、哲学や宗教、道徳の議論でした。
議論はいくらでもできますから、曖昧なままで生きてきました。
しかし、私たちは今、事実を知ることができます。
人間が誕生してからの年数に比べれば、150年はあまりにもごく最近です。
霊長類が現れたのが、1億年から7000万年ぐらい前で、私たちと同じような新人が現れたのが、20万年ほど前と言われています。
150年は、ほんの今のことなので、定着はしていませんが、事実は、事実です。
気の長くなるような過去ですが、過去に気を使うことも、義理立てする必要もありません。
私たちは、自我が発達した現代人なのですから、折角手に入れた医学の事実を使いましょう。
もし、自分で生きていると思っていれば、比較と競争の社会の中で、かぎりなくエネルギーを消耗し、人生が、徒労に終わります。
何度も申しますが、孤立と孤独に陥り、一人ぼっちで死んでいかなくてはなりません。