生かされてる医学のカウンセリング(性格分析3)
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タイトル 「集団無意識」からでたF
投稿日: 2011/05/04(Wed) 20:03
投稿者sasada

 日本社会のA、B、Cは、「村八分型集団無意識」を維持するものです。その完成はいつか分かりませんが、江戸時代の隣組制度あたりかもしれません。なんと言っても、誰か一人が掟を破れば全員が首をはねられるというのは、その意味で見ればよくできた制度です。

 これは、人を締め付けるものです。重苦しいものです。特に、衣食住を得ることがそれほどむずかしくない豊かな時代になると、たまらなく嫌なものになります。

 特に、若者には耐え難いものでしょう。そこから自由になろうとします。しかし、「集団無意識」から出ても、一人では孤独と不安だけです。これは当然でしょう。集団から離れれば一人になるのは当たり前のことです。これは、恐怖です。だから、「集団無意識」に戻ろうとします。しかし、「村八分型」は嫌です。耐えられません。そこで、「居心地の良い集団無意識」を求めます。

 テレビの人気者が、今の若者と同じような人物であるのはそのためです。あまりにも高潔な人格や人間性では、「居心地の良い集団無意識」を共有できません。野球やサッカーの技術は素晴らしくとも、人間としてはあまり毒がなく面白い人物でなければなりません。

 女性がブランド品にひかれるのもそのためです。「村八分型集団無意識」を破り「居心地の良い集団無意識」に浸るには、ブランド品は格好のものです。過去の日本にはなかった光り輝くものを、かなりの人々と共有する。これはおしゃれではありません。おしゃれは個性を表現するものです。日本で個人を表現することは、「村八分型集団無意識」のA(きびしい親)の格好の餌食にされますから危険です。多くの人と一緒ということでそれから身を守りつつ、自分を少し感じられる、それにはブランド品ですということになります。

 「村八分型集団無意識」から「居心地の良い集団無意識」への移行ということで見れば、多くの現象が理解できます。

  ただ、問題は「居心地の良い集団無意識」にも埋没できない人です。自分というものがあれば、「居心地の良い集団無意識」も違和感を感じます。「集団無意識」に入るには自分をなくすことが条件です。居心地さえよければ自分はなくても良いということでなければなりません。

 当然、自分を感じていたい人には入れるところではありません。そこへ行けば、傷ついたり、空しさを味わらなければなりません。しかし、自分だけでは孤独です。不安です。これは辛いですね。どこへも行けません。どうして良いかも分かりません。

  自分を感じる、つまりF(自分を生きたい自分)に目覚めるということは、このようなことが起こります。「集団無意識」にいれば眠っておれます。安心が得られます。たとえ不幸になっても、みんなと一緒に不幸になるのなら大丈夫なのです。しかし、Fに目覚めれば、それはできません。とはいっても、「集団無意識」から離れれば、孤独と不安です。耐え難い苦しさです。

  この孤独と不安は耐え難いものですが、実はこのときYu(ユー)を知る瞬間なのです。この時、強くかぎりなくやさしいYu(ユー)を感じることができるのです。「集団無意識」の中にいる限り、Yu(ユー)を知ることは困難です。「集団無意識」でYu(ユー)を知るというのなら、原始宗教と変わりません。現代的な意味はありません。

  なぜなら、Yu(ユー)は、この私のために身体や太陽を動かしてくれている存在です。「私のために」ということが、大事な大事な点なのです。感動的なのです。さらに、自分の中にもYu(ユー)があります。ふとした優しさの自分です。人の笑顔を見るのが好きな自分です。内なるYu(ユー)です。私は、Yu(ユー)の子なのです。これが、現代において「私」が救われる点なのです。

  ですから、孤独と不安になったとしても、どうかこれはYu(ユー)に至る道なのだと知ってください。逆に希望を持ってください。


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