タイトル | : 「生かされてる医学」の三幕 |
投稿日 | : 2011/05/10(Tue) 22:18 |
投稿者 | : sasada |
「E(安心)ですか、D(満足)ですか、F(自分を生きたい自分)ですか」と問うトレーニングを行えば、EもDも欲しいが、やはりFです。
私は、やはりFを生きたい、それが私の本心なのだ。そうか、私は、Fを求めていたのだ。
どんなに葛藤や混迷が強くても、Fを生きていけばよいのだ。それに気がつくと、一筋の希望が見える。光が見える。
これが、「生かされてる医学」の第一幕目です。
しかし、どんなに、頭ではFだとわかっても、E・D・我はやはり捨てられない。安心も満足もプライドも、みんな欲しい。この感情の嵐に巻き込まれてしまう。
ただ、よく見つめてみると、一時的な安心や満足やプライドが欲しいのではない。
永遠の安心であり、消えることのない優しさであり、傷つくことのなく輝く自分が欲しい。
それは、Yu(ユー)の世界でしか得られないものです。
そうか、私のFは、一見、E・D・我を求めているように見えるが、突き詰めれば、Yu(ユー)を求めていたのだ。
これが、「生かされてる医学」の第二幕目です。
求めていたものがYu(ユー)だとわかり、懸命にYu(ユー)を得ようとするが、手ごたえがない。実感がこない。
Yu(ユー)に救いを求めても、何も帰ってこない。また、私は漂うのだろうか。
そのとき、自分の中に「ふとした優しさ」がある。
自分のことしか考えられない真っ黒けの自分の中に、不思議な優しさがある。「自分を越えた優しさ」であり、「自分には出来過ぎの優しさ」です。
これが、Yu(ユー)なのだ。今まで、外にYu(ユー)を求めていたからわからなかったのだ。手ごたえも実感もなく、ただ言葉だけだったのだ。
自分の中にある「ふとした優しさ」、これを育てていけば良いのだ。自己肯定できて、自由になれるのだ。これが、本当の希望なのだ。
これが、「生かされてる医学」の第三幕目です。