タイトル | : 存在の肯定の方法は4つしかない |
投稿日 | : 2011/05/08(Sun) 20:04 |
投稿者 | : sasada |
人生は、簡単と言えば、簡単です。充実感が高ければ、自分を感じられます。すべては勉強であり、学びであり、試行錯誤も楽しみです。
しかし、充実感がなくなれば、すべてがストレス、悩み、苦しみになります。
その充実感は、「自分の存在を肯定できるかどうか」によって決まります。
一言でいえば、人生とは、「自分の存在の肯定ができるか否か」という問題です。実に数多くの問題があるように見えるのですが、突き詰めていけば、結局はこの一点になります。
「自分は、ちょっと良いかな。かなり良いよ。随分良いよ。本当に良いよ。素晴らしいよ。」、そう思えるかどうか、心の底から感じられるかどうかです。自分の存在の肯定ができれば、自由です。
人間にとって、自分の存在の肯定は、死活問題です。
そして、その存在の肯定は、4つしかありません。
社会の評価か、居直りか、宗教か、Yu(ユー)の愛かです。
社会の評価は、必ず優劣がつきます。順番が決まります。いつも成功し続けることはできません。いつかは、敗者になります。常に不安と緊張と、結局は自己否定に悩まされます。傷つく自分が残るだけです。
「社会の評価はもう気にしない。自分は、自分で肯定する。」、と言って見ても、自分がそんなに素晴らしいはずはありません。目をつぶって感情や過去を否定して、居直って、プライドでがんじがらめになり、自律神経系の極度の過緊張に陥るだけです。
宗教は、信じることができなければ意味がありませし、それが真実かどうかを確かめる方法もありません。
私達を、過去から、世間から、孤独から解き放ってくれるものは、Yu(ユー)の愛しかありません。
どれで決めるかは、全く、本人の自由ですが、決めることができれば、心はウキウキとなります。心がウキウキするかどうかが、決められているかどうかの判定基準です。
もし、ウキウキでなければ、決められていないということです。
どれによっても、自分の存在の肯定ができなければ、自信を持てません。心の中では、葛藤して、エネルギーを消失し、漂うことになります。漂える人です。
勿論、どの方法であったとしても、それが自分の血肉となるには、それなりに時間とトレーニングを必要としますので、すぐには、ウキウキとはならないでしょう。
しかし、それが自分の本心に合っていて、しかも本物であれば、かすかかも知れませんが、春の野のツクシの芽のような希望が見えてきます。いつの日か、ウキウキとなれるかもしれないという優しい期待が、湧いてきます。