タイトル | : Fの三面性 |
投稿日 | : 2011/05/08(Sun) 15:53 |
投稿者 | : sasada |
Fの自覚は大事です。Fが集団無意識に埋没している人が、「本当の自分」を生きることは不可能だからです。
しかし、Fだけであれば、孤独と孤立です。「我」です。「我が強い」だけですから、自滅です。
集団無意識に埋没している限り、ある程度の満足も安心も得られます。それなら、なにも人間に生まれなくても良いとも言えますが、生まれてしまったものは仕方がありません。「我」の孤独と孤立よりは、まだましでしょう。
しかし、それでは空しくなり、悲しくなり、生きていられないと感じるのは、Fです。これもどうしようもありません。Fは、どうしようもなくFなのです。集団無意識には戻れないのです。
善悪の問題でも、いかに生きるべきかの問題でもなく、集団無意識におれるか、おれないかだけの問題です。「集団無意識で満足できるのか、できないのか。満足はできなくても、なんとかごまかしながら集団の中でやっていけるのか、いけないのか」という問題です。
集団無意識におれないのであれば、Fです。Fは、孤独と孤立です。行くては自滅あるのみです。Fは、我、プライド、自尊心、コンプレックス、恨み、妬み、傲慢と、さまざまな姿になって現れ、自滅のシナリオを遂行してしまいます。
Fにとどまっている限り、「我の人」です。勿論、それで良いという人も確かにいます。自滅したとしても、「我の人」で良いという人は、それで良いでしょう。今度は、「我で満足できるのか、できないのか。満足はできなくても、なんとかごまかしながら我でやっていけるのか、いけないのか」という問題です。
我のままでも嫌だとなれば、悲劇です。集団無意識も自滅も嫌だという人です。もう行くところはありません。本当におしまいです。
しかし、確かに悲劇なのですが、それは人間として当然のことであり、きわめて正常な心だと思います。正常な心であり、願いなのですから、正々堂々と願いましょう。「集団無意識も自滅も嫌だ。私の生きる道を示せ!」と。
それは、Yu(ユー)しかありません。自分のFに十分絶望し、しかし、Fも捨ててはいきられない自分に悲しみを感じるとき、Yu(ユー)の優しさがわかります。
この絶望や悲しみは、Fが大きくないとわかりません。「我」が強くないと、「我」の限界や、暗闇がわかりません。だから、Fを捨てられないとわかったら、Fを自覚することです。「私はFだ。我だ」と自覚することは、Fを大きくすることです。そうすれば、「我」の限界が納得できます。
自分の「我」に絶望と悲しみを感じたとき、初めてYu(ユー)が実感できます。Yu(ユー)の優しい世界が、自分の問題としてわかります。Yu(ユー)は、私のために存在し活動し続けているということがわかります。Yu(ユー)を知り、「我」の縛りから解き放たれて、自由になれます。生きている喜びが来ます。
集団無意識に埋没している限り、人間として生まれた喜びは味わうことは出来ません。だから、Fは非常に大事なものです。良いものです。しかし、Fは「我」であり自滅です。これが、Fの二面性であり、さらに、Fに絶望してYu(ユー)に出会えれば、広い自由の世界を生きれます。喜べます。これが、Fの三面性です。