タイトル | : 卑怯な神様と自己犠牲のウサギ |
投稿日 | : 2011/05/08(Sun) 13:48 |
投稿者 | : sasada |
先日、車の中でラジオを聞いていましたら、次のような寓話の話がありました。
昔々、ある山の中で、猿やイノシシや熊やライオンや、いろいろな動物が住んでいました。そのなかでも、長者と呼ばれているウサギがいました。
長者というのは、お金持ちということではなく、人格円満で、優しくて、人徳に満ちたという意味です。ウサギの話ですから、人格や人徳はおかしいですが、たとえ話ですのでご了承を。
このウサギは、動物たちの中で、何か諍いや問題があると、いつも円満に解決してくれるので、みんなから尊敬され慕われていたそうです。
それを見ていた大変な実力者の神様は、ウサギの徳が本物かどうか試そうと思いました。そこで、何日もご飯を食べていない哀れな旅人の姿に変身をしました。
さっそく、動物たちは、いろいろな食べ物をもってきてくれました。しかも、自分の家からとは言わずに、落ちていたものだとか、誰かが忘れていったものだとか言って、旅人の心の負担にならないように気を使っていました。
しかし、長者のウサギは、何も持っていませんでした。ウサギは、「私は何ももっていません。ひもじい旅人とのお役に立つことができません。せめて、私の身体を受け取ってください」と言って、そばのたき火の中に身を投げました。
大変感動した神様は、そのうさぎの姿を、月に刻み込み、後生に末永く、うさぎの自己犠牲の徳が伝えられるようにした。それが、現在、私たちが月を見ると、うさぎのように見えるわけだというお話です。
このような種類の話は、よくありますが、Yu(ユー)から見ればどうでしょうか。
まず、この神様は、卑怯者です。動物たちを支配したい自分中心の偽物です。ウサギも、猿も、ライオンも、すべては自分の子供です。子供を騙して試すというのは、親のすることではありません。愛も優しさも全くありません。
それに比べれば、心の負担をかけないようにと、落ちていたとか、誰かが忘れていったと言って食べ物をもってくる動物たちの素朴な優しさのほうが、数段上等です。
次に、ウサギですが、このウサギは偽善者です。みんなへの愛などありません。自分だけが評価をもらいたいのです。なぜなら、そこまでの自己犠牲をすれば、他の動物たちがもってきた食べ物の価値が薄らぐではありませんか。
さらに、自分を犠牲にして何の意味があるのでしょうか。自分も旅人も、ともに生きていることを喜べなければなりません。自分の食べ物の半分をあげることは良いでしょうが、自己犠牲は、単なる自己満足です。
本当の親切は、食べ物を与えることではありません。十分な旅の支度もなくて出発すれば、誰かに迷惑をかけることは当たり前です。その旅人が、どうしても行かなくてはならない用事があるのなら、迷惑をかけなくてもすむような旅の仕方を教えてあげることです。
また、用事もなくて、ただ家にいるのが嫌でさまよっているのなら、そのような考え自体を改めなくてはなりません。自分で働いて食べ物を得られるように指導してあげることです。
このようなたとえ話は、いろいろと形を変えて伝わっています。しかし、それらは人間を支配したい人間によって作られたものです。
そこで言われている優しさは、偽りの優しさであり、Yu(ユー)の優しさとは何の関係もありません。
むしろ、Yu(ユー)の子供たちを支配し奴隷にするものです。