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タイトル親鸞の救い
記事No95
投稿日: 2011/05/07(Sat) 23:07
投稿者sasada
  親鸞は、大変な秀才でした。比叡山の延暦寺で勉強しました。当時の延暦寺は仏教の最高峰でした。仏教以外に大して学問がない時代ですから、最高の知性の結集と言っても良いでしょう。ありとあらゆる仏典を徹底的に勉強したことでしょう。しかし、救われませんでした。
体得の修行も出来るかぎりしたことでしょう。しかし、救われませんでした。

  親鸞が救われたのは、「南無阿弥陀仏」でした。「阿弥陀さん助けてください」と一心に願うことでした。ある日ある時「もう、助けている」という声を聞きました。確かに、心臓は動いています。太陽は昇っています。大きく目を開いてみれば助けられています。生かされています。今まで、それに気がつかなかっただけです。

  「親鸞はもっと奥深いことを理解したが、民衆はとうてい理解できないので誰にでもできる南無阿弥陀仏を広めたのだ」と考えている人もいるようですが、それは間違いです。確かに、奥深いこと難しいことはたくさん知りましたが、それでは親鸞自身は救われなかったのです。

  親鸞が救われたのは、ただだ「南無阿弥陀仏」なのです。阿弥陀さんの優しさに触れてなのです。「どうしても救われない徹底的に情けない自分」、しかしその「だめな自分」が生かされてるのです。大切に大事にされているのです。その優しさに触れて、初めて救われたのです。
  つまりYu(ユー)の「かぎりないやさしさ」に触れて救われたのです。

  振り返ってみれば、私自身もそうでした。古今東西のありとあらゆる本を読みました。しかし、問題の解決は得られませんでした。今やっているファースティング(絶食療法)や丹田呼吸法も元々は私自身を救うためにやったものです。しかし、救われませんでした。

 私が救われたのは、Yu(ユー)の「かぎりない優しさ」を知ること、感じることによってです。Yu(ユー)の「かぎりないやさしさ」によって、救い、つまり「本当の自分を生きる、自分の山を登る」ことが出来るようになりました。