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タイトル昼寝と自分、どちらを取りますか?
記事No82
投稿日: 2011/05/07(Sat) 11:28
投稿者sasada
  「生かされてる医学」の目的は、実生活で機嫌良く生きる能力と方法の獲得です。「今の職場は、人間関係が悪くて続けられません。」、「家が嫌で、なんとか外へ出たいと思います。」、「とてもこんな環境では、生かされてる医学の勉強など出来ません。」、多くの人はそのように言われます。
 
  山寺にこもって修行するとか、修道院に入るとか、古くからそのような修業の形がありました。「何もない所のほうが、よく勉強もできるし上達も早い」、一見そのように考えられますが、しかし、それは変です。問題は社会の修羅場を生きる能力と方法を身につけることですから、山寺や修道院では得られないのではないですか。
 
  何もない広い平原を自動車でいくら走っても、東京や大阪の街の中をスイスイ走る技術は身に付きません。「十分練習してから。」と言われるかもしれませんが、何を十分練習するのですか。練習がいるのは、街の中です。平原を何万キロ走ったとしても何の練習になるのですか。

  多くの人は、山寺や修道院に行こうとまでは思っておられませんが、では、どこへ行くのですか。「人間関係が悪くなく、自分を生きられる所。」、それは確かに良いでしょう。しかし、そんな所が世界のどこにあるのですか。そんな所があれば、もう既にみんな行っているのではありませんか。
 
  「今よりも、ましなところで良いんです。」、しかし、大して変わりません。新しい環境になると、自分を知っている人がいません。人の目(きびしい親)を感じなくてすみます。E(評価を気にする子供)の高い人にとっては、開放感が来ます。しかし、時間がたつとみんなが自分を知ってきますので、また同じことになります。

  よく考えれば当たり前のことです。問題は、人間関係や環境よりも、自分自身だからです。自分自身の解決がなくて、どこへ行っても同じです。人間関係のない所はありません。たとえ、そこの人間関係が「まし」であっても、今度は「その仕事が自分にあっているかどうか、こんなことで人生を過ごしていて良いのだろうか。」、などなどの疑問が出てきます。

  結局、環境が悪ければ環境で悩み、環境がましで心の余裕がでれば、今度は自分自身に悩むことになります。その繰り返しで人生が終着駅に到着してしまいます。

  何が問題なのか、それは自分自身を解決していないからです。そのトレーニングは、修羅場の中で行います。社会は修羅場です。その中で生きていくのですから、修羅場で通用するものでなければ何の意味もありません。

  それともっと大事なことは、人間は少し環境が良くなればトレーニングしなくなるものです。楽になれば昼寝をしてしまうものです。「今よりましなところ」という考えは、昼寝をしたいということと同じです。自分を解決したいということではないのです。

  昼寝をしたい人にまでお節介をする気はありません。自分の人生ですからどう生きようと自由です。でも、「もう同じことの繰り返しは嫌だ。」という人であれば、是非根本的に解決しましょう。

  「生かされてる医学」では、「現実は変えない」というのを鉄則にしています。それは、一つには現実を変えることは、昼寝をしたいということであって、「本当の自分」を生きることには関係がないからです。現実を変えたとしても、「本当の自分」を生きるトレーニングにはならないからです。

 もう一つは、生かされてる医学の5つの方法によるトレーニングをしていけば、「本当の自分」を生きることができ、「結果として現実が変わる」からです。社会が、修羅場が変わるのです。これが、現実の本当の解決方法です。

  トレーニングしていけば分かります。修羅場と言っても、現代の修羅場は大したことはありません。餓死しません。命まで取られません。修羅場にしているのは、「我」です。「EもFも両方欲しい」という自分自身の「我」です。

  ですから解決は難しくありません。今の現実の苦痛こそ、生かされてる医学の5つの方法によるトレーニングをする動機です。苦痛があるからこそ、トレーニングができるのです。苦痛がなくなれば、トレーニングなどできません。飢餓の時代ならハングリーなエネルギーが溢れているでしょうが、現代のように何となくでも生きていける時代にあっては、苦痛は貴重品です。エネルギーです。

  この苦痛を利用して、トレーニングを実践します。ひとつ自由を獲得しますが、また苦痛は来ます。またトレーニングです。だんだん自由が大きくなります。しかし、また苦痛です。またトレーニングです。最後の日までトレーニングです。

  すべてはトレーニングのきっかけですから、失敗も大丈夫です。トレーニングすることに意義があるので、結果はどちらでも良いのです。トレーニングということが分かってくると、苦痛から逃げる必要はありません。苦痛も人生も、むしろ友人という気持になります。