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タイトル虐待された子供達と癒し
記事No76
投稿日: 2011/05/07(Sat) 10:17
投稿者sasada
  愛して欲しい親からの虐待は、言葉では表現できないほど悲しいものがあります。愛が欲しいので、耐えざるを得ません。他人に訴えれば、愛を完全に失ってしまうのではと思うと、訴えることもできません。

  その前提には、存在の否定体験があります。Eです。自分は、親にとっていらない存在かもしれない。じゃまな存在かもしれない。そのような存在の否定体験があって初めて、虐待にも耐え、他人に訴えることもできない悲惨な出来事が起こります。

  一方、自分は親にとって最大の喜びだと実感している子供は、Dです。お仕置きをしようにも、叩けば叩き返します。平気で他人に親のひどさを言いふらします。親は、家来以下です。裏切ることもさぼることしないからです。

  ですから、虐待の背景には、親が子供の存在を否定しているということが前提にあります。この前提が、重大なものなのです。

  この子供たちが保護されて、カウンセラーやいろいろとお世話をしてくれる人たちから愛を与えられると、癒されることでしょう。

  しかし、それは根本的な解決にはなりません。存在の否定体験は解決されていないからです。親に代われる人はいません。カウンセラーやお世話をしてくれる人たちがいかに優しくても、自分だけの親ではありません。

  周りの大人が優しければ優しいほど、親の冷たさがより一層こたえるでしょうし、優しい大人も結局は自分だけの人ではなく、多くの子供達の優しい人でしかないことを感じ、孤独感は癒されないでしょう。

  Yuなしの癒しは、癒しになりません。Yuを知るということは、Yuの無条件の優しさによって、存在の肯定体験を得ることです。具体的には、自分の中に「ふとした優しさ」を発見して自己肯定を得るということです。

  一方、親に対して完全な愛を求めることは酷だということが分かります。親も不完全な人間です。ご飯を食べさせてくれただけでOKとすべきです。

  Yuによる存在の肯定体験と親との和解。これが、根本的な癒しです。