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タイトルキリストと断食
記事No48
投稿日: 2011/05/04(Wed) 22:05
投稿者sasada
  断食がどのくらい昔から行なわれたか正確には分かりませんが、数千年も昔から行なわれていたのでしょう。

  古いものではっきりと記載されているものに、新訳聖書があります。実にダイナミックな内容のある記事なので、大変興味がひかれます。

  私が、聖書を初めて買って読んだのは、確か中学の二年生の頃です。マタイ伝の最初のところに、キリストは40日間断食されたと書いてあります。その後もいろいろ奇跡のような話が出てきます。だから当時は「聖書は事実を書いてあるというよりも、たとえ話しとして書かれている書物だ」と思ったものです。

  しかし、何十年もファースティングの仕事をしてくると、40日間の断食は事実のように思えます。「おなかの脂肪10Kgは1か月間のエネルギー」に相当します。キリストは30才前であったということですから、40日間の断食は可能だったでしょう。

  ただし、命の保証はありません。欧米では、体重が150s以上もの超肥満の人に長期間の絶食療法をした報告例はいくつもありますが、一歩間違えば医学管理をしていたとしても死亡する可能性は大きいでしょう。健康医学としては決してこのようなことはしてはなりません。

  ただ、キリストにとっては命懸けの修行です。命はいらないということであれば、その程度の断食は出来たことでしょう。勿論、不安や不満があれば駄目です。心身相関が乱れて身体の代識がバラバラになり、非常な苦痛がくるでしょう。生命も危なくなるでしょう。やはり自分を捨てて、一心にひたすらにすることが良いのでしょう。
 

  さて、断食が終ると悪魔がやって来て3つの質問をしたと書いてあります。誘惑するためです。
  「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じて御覧なさい」、これに対してキリストが答えだのが、あの有名な「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉です。

  40日間も断食をすれば、食欲はそんなにあるものではありません。ファースティングの体験がある人であればわかります。私だって40日間もファースティングをすれば、その程度のことは言えそうです。

  しかし、その次の言葉「人は神の口より出る一つ一つの言葉にて生きるものである」、これは平凡人ではちょっと言えません。さすがにキリストです。

  さて第2問、悪魔が言います。高いところへ連れていき、「下へ飛び降りて御覧なさい。あなたが神の子であるなら、御便たちが手で支えるでしょう」。

  40日間も断食しても生きられたということは、実に不思議な素晴らしい体験です。私たちは75兆個もの細胞で生きており、心臓も一日に10万回動き、太陽も、酸素も、水も与えられています。

  医学的に見れば生かされてるのは事実であり、さらにファースティング中には、どれだけ自律神経やホルモン系が活躍して生命を支えるか、その史上最強に激しくて素晴らしい変化と調和の数々を知り得ます。生きていることが既に奇跡のようだということが理解できます。

  青年キリストは医学的には知ることができなくても、それを肌身で感じたことでしよう。自分だけではありません。ふと見ると草花も、木々の緑も、動物も昆虫も、この世自体が奇跡のような力で生かされています。

  これ以上の素晴らしさは必要ありません。この上まだ奇跡を欲しがるのは、この素晴らしい目の前の世界がよく見えていないからです。悪魔の問は、「私は盲目です」と言っているのと同じで、キリストには愚問としか映らなかったことでしょう。

  それに、高いところから飛び降りれば命がなくなります。そうでなければなりません。ある人だけは宙に浮くような"でたらめな法則"ではこの世界は成立しません。生きているという奇跡的な出来事を起こすには実に厳密な法則がいります。キリストにとっては、この"厳密な法則"こそ神の手になるものと実感されたことでしょう。

  奇跡はあってはならないのです。奇跡があれば、たくさん貢ぎ物をした方が得だとか、神様に気に入られよう、よく思われようと、人間は胡麻をすることにあくせくするでしょう。それは人間が神様の奴隷になることです。「神さまは、そんなことを望んでおられない。奇跡はあってはならない」、青年キリストは確信をもって、胸を張ってそう答えたことでしょう。

  最後の問です。悪魔はキリストをやはり高いところへ連れて行って世界を見せ、「もし私にひれ伏して拝むなら、この世の全ての国々とその栄華を全てあげましよう」と誘惑します。

  悪魔はきっとファースティングを体験したことがなかったのでしょう。40日間も断食をすれば、「爽やか指数」は著しく高まります。充実感と生命力が自分の中から満ちあふれています。「私は生きている」という実感そのものです。私自身がダイヤモンドです。今更何がいりましようか。「何にもなくても、私は素晴らしい」のです。

  下手に国を貰っても、その運営で悩まねばなりません。戦争もしなければならないでしょう。自分自身が空虚であれば、そんな苦労をしても、地位や名声や権力はありがたいでしょう。自分が生きていることを感じるためにも、自分を守るためにも、それらは必要です。

  しかし、青年キリストは満ち足りているのです。充実感と生命力と自分自身にに満ちあふれているのです。浮世からしてもらわねばならないことはもう何もないのです。ただ、浮世を救うために出発しようとしています。「一人一人が100点満点であることを忘れて苦しんでいる浮世」へと出発しようとしているのです。

  このように、ファースティングの立場から見ると、キリストは書物で学んだことや頭で考えたことを語っているのではなくて、自分自身が感じたもの、体験から出たものを率直に語っているように思えます。

  その後も新訳聖書には、奇跡の話しがでてきます。例えば、5千人の人が、数個のパンで満腹になったという話しです。キリストに従って多くの人が歩くのですから、十分な食事は出来ないでしよう。半断食に近い状態だったのではないでしょうか。

  断食状態ならばごく僅かな食べ物で満腹になるのは、ファースティングの時に、ビスケットや豆腐を食べた人はよく分かるでしょう。復食の最初の日は少しで満腹になります。数千人が数個のパンで満腹になったというのは少し誇張だとしても、決して精神的な意味だけで満腹になったという比ゆ的な話ではなかったでしょう。

  それから病気が治ったという話しも随分たくさん出てきます。これも、心身相関を理解していただいた方にはよく分かるでしょう。キリストによって不安や葛藤が取り除かれれば、心身相関が良くなります。自律神経、ホルモン、免疫系が調和を取り戻します。活性化します。

  何といっても相手はキリストですから、その効果は強力です。心身相関から見ると、治って当然と考えられるものがたくさんあるのはうなずけることです。

  こうして見てくると、最初読んだ時とは違って、私は、聖書というのは事実や実感をそのまま書いてある、そういう部分がかなりあるのではないかと思うようになりました。

  ただ、悪魔はキリストの妄想です。キリストの頭にあった最後の妄想が姿を現したのでしょう。しかし、ファースティング体験の前で全く刀が立たず醜態をさらす結果となり妄想は消えました。

  妄想から覚めたとき、世界はこれ以上ないほどに美しく優しく輝いていたことでしょう。ファースティングはまさに「本当の世界」を知り、「本当の自分」を生きる方法であったのです。