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タイトルソクラテスとお釈迦さん
記事No112
投稿日: 2011/05/08(Sun) 13:40
投稿者sasada
私には、ソクラテスとお釈迦さんには、相違点と共通点があると思われます。誰もそのようなことは言わないのですが、そのことをお話ししたいと思います。

ソクラテスといえば、哲学の開祖ですから、誰だって知っています。そのソクラテスで最も有名な言葉は、「無知の自覚」です。「自分が何も知らないことを知る」ことです。

「何かを知っている」と思っている間は、たかがしれています。本当の知性とは、「自分は何も知らない」というところまで自分を見極める能力でしょう。

大学にいたとき、高血圧の研究をしていました。高血圧の原因は正確には殆ど分かっていません。ただ、1割ぐらいは、二次性高血圧と言って、原因が分かっているものがあります。腎臓の動脈が細くなっているもの、副腎に腫瘍ができているもの、甲状腺機能が昂進しているものなどがあります。

しかし、なぜ動脈が細くなったのか、なぜ腫瘍ができたのか、その原因になると分かりません。その他の大部分の高血圧は、いかにもそれらしく本態性高血圧という名前が付いていますが、これは原因が分からないと言う意味です。普通、高血圧と言っているのはこれです。

減塩が効果があるので、食塩のとりすぎが原因ではないかと、考えられていますが、体内に食塩が多く取り込まれているという証明はされていません。細い動脈の内側の細胞に食塩がはいり浮腫状態となり内腔が狭くなるとか、食塩が多くなると、ストレスで交感神経が刺激されたとき、血管が収縮しやすくなるからだとも言われていますが、これらも証明されていません。

要するに、詳しく調べていくとよく分からないのです。遺伝子病などの病気を除いて、成人病などの人間の病気については多くが原因が分かりません。

医学だけではなく、日常生活の色々なものもそうです。目の前に椅子があります。これは何ですか?と聞かれれば、椅子ですと答えます。椅子は何でできていますか?と聞かれれば、木からできています。木は何でてきていますか? 炭素や酸素という分子からできています。

では、分子は? 分子は原子から。原子は? 原子は陽子や素粒子から。では、陽子や素粒子は? もはやわかりません。まして、それらがなぜ、そのような形であるのか、誰がそのようにしたのか、そのようなことは全く分かりません。

よく見つめてみると、私たちは何も知りません。医学や物理学だけではありません。朝、起きる時を考えてください。眠いのになぜ起きるのですか? 会社へ行かなくてはならないから。ではなぜ、会社へ行くのですか? 給料をもらうためです。

では、なぜ給料をもらうのですか? それは生きて行かなくてはならないから。では、なぜ生きて行かなくてはならないのですか? そこまで問いつめられると、分からなくなります。なぜ、生きていくのだろう? そうだ、妻や子を飢えさせてはならないからだ。それでは、あなたの人世は、妻や子を養うためのものなのですか?  ???

難しい哲学の話をしなくても、日常生活でも、なぜを5回繰り返せば、答えが分からなくなることばかりです。いや、難しい哲学の話が分からないのであれば、生きていくのに特に困りません。

しかし、日常生活が分からなくなると言うのは深刻なことではありませんか。ソクラテスだけではなくて、私たち全員が本当は何も知らないで生きているのではありませんか。

ただし、私が本当に興味を持っているのは、無知の自覚ではありません。無知の自覚は、考えれば誰だって分かることです。私の興味は、ソクラテスが無知の自覚に達したとき、世界はどのように見えたのかということです。

無知であることを自覚したからと言って、世界が消滅したわけではないことは確かです。そのとき、空は、山は、家並みは、人々はどのように見えたのでしょうか。

このことについては、書かれてありません。知性や理性を重んじる文化だからなのでしょうか、どうしてそのことを重要視しなかったのか分かりませんが、私には大変大切なことのように思えるのです。

無知の自覚に達するということは、一切の過去の思い出や先入観や固定観念から解放されて自由になるということです。その時、見るもの聞くもの全てが生き生きと息づき輝いたと思います。

普段、目に見える世界は、さまざまな思い出や固定観念で一杯になっています。日常生活で汚れ疲れています。春も夏も秋も単なる繰り返しで、退屈しています。人世自体がなんとなく空しいもののように思われます。そのような日常性から解放されたとき、新鮮な感動の世界が息づきます。

私には、ソクラテスが無知の自覚に達したとき、ギリシャの海や空や街並は、美しく輝いていたと思われます。しかし、お釈迦さんにとっては、それは到達点ではなく、出発点であったのではなかろうかと思います。

お釈迦さんにとって、無知の自覚は勝利ではなく苦しみでした。若き日のお釈迦さんは多くのものを持っていました。名誉も、権力も、豪華な家も、妻も子も、若さもありました。

しかし、幸せには感じられませんでした。周りを見ると、人々の苦しい生活があります。病気にもなります。老いてもいきます。最後は、死ななくてはなりません。それを見ると気持ちが沈むばかりです。

地位や名誉や富ばかりではなく、いろいろな権威ある思想や教えも、役に立ちません。無知であり無力です。「一切は役に立たない」、これは苦渋に満ちた自覚でした。

大きな決断をして、修行のために苦行林に入ります。ありとあらゆる修行をしましたが、解決はありません。ついに、「修行も意味がなかった」のです。これは背筋が寒くなるように本当に恐ろしい自覚です。もはや何もありません。解決への全ての方法を失ってしまいました。

やむなく苦行林をでて、菩提樹の下で座禅をしていると、明けの明星が光りました。その時「何も知らない、何もできない。こんな徹底的に駄目な私が、生かされてる」という事実を体得しまた。感動に満たされ、世界が燦然と輝きました。

しかし、お釈迦さんはそこで止まりませんでした。そこで止まっていたら、たんなる悟りにすぎませんでした。そこから立ち上がって、その内容を多くの人に伝えに行きました。

新しい世界を伝えることは容易ではありません。憎まれ攻撃されるかもしれません。命が危なくなるかもしれません。事実、キリストは殺されました。その危険を冒してまでも伝えようとしたのは、外なるYu(ユー)を実感しただけではなく、内なるYu(ユー)を見出したからなのでしょう。

そこには内なるYu(ユー)から来る優しさがありました。この優しさが2500年を越えて私たちにも働きかけているのでしょう。仏教が今なお生き続けているのは、この内なるYu(ユー)の優しさによるのだと私には思われます。

このように、お釈迦さんが、Yu(ユー)を見たことは確かでしょうが、ソクラテスはどうだったのでしょう。それらしきものは感じたかもしれませんが、はっきりとYu(ユー)を実感はできなかったのではないでしょうか。

このように、ソクラテスとお釈迦さんは、無知の自覚に達したという点では、共通点です。ただ、無知の自覚に達する動機や道筋、そしてその後の生き方は非常に異なったものになったということでしょう。