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タイトル可哀想がこわい
記事No111
投稿日: 2011/05/08(Sun) 10:13
投稿者sasada
 「F(自分を生きたい自分)を選択する」というのは、「孤立と孤独を引き受けることです」と言っておりますが、それは世間の人間関係に対してです。世間の人間関係は、「世間体」で人を縛ろうとします。「他人の山」を登ることを強要します。まさにEなのですが、この「世間体」のEは強力なものです。Fを生きたい、しかしEにも縛られる、結局「どっちも欲しいさん」で混迷に沈むということになります。

 世間に従わなければ白い目がきます。しかし、これは本当はそれほどでもありません。貧しい時代であれば、世間から村八分にされれば、生きていけませんでしたから、強烈な縛りでしたが、現在は一人でも不自由なく生きていけますので、現実的な障害はたいしてありません。ただ、孤立と孤独になるだけです。

 それよりも怖いのは、B(やさしい親)でしょう。自分の中に、B(やさしい親)があると、人が苦しんだり、つらい思いをしていると可哀想になります。Eも高いと、自分が不安を感じるので、相手の不安もわかります。それだけに、見ているのが本当につらくなり、何とかしてあげたくなります。極端に場合は、自分を犠牲にしてまで助けてあげたくなります。

 このB(やさしい親)は、まさしく人間関係です。世間の人間関係です。優しさのために、この人間関係に縛られて、身動きがとれなくなります。「可哀想!」と思う気持ちを切り捨てることは容易ではありません。

 この可哀想のために世間に縛られます。Eに取り込まれていきます。この「可哀想!」に対して、孤立と孤独を維持することは、心を引き裂かれるような感じさえするでしょう。

 この優しさは素晴らしいと思います。これこそYu(ユー)からきたものです。私がYu(ユー)の子であることの特徴です。しかし、それも一旦立ち止まり、客観的に判断するトレーニングを身に付ける必要があります。

 一つには、可哀想と思う相手は、本当は少しも可哀想ではないかもしれません。自分は、B(やさしい親)とE(不安さん)だからそう感じるのですが、相手は「あんたが悪いさん」かもしれません。「あんたが悪いさん」は、なかなかの利口者です。
さかんに同情を引くようなことを言い、こちらが優しくしないと、相手の冷たさを攻撃します。弱点を巧みに利用します。

 あるいは「行け行けさん」かもしれません。「行け行けさん」はEがないので、本人は不安を感じていません。人生に挫折し、うまくD(自由気ままな子供)を生きれないので困っているだけです。でも、BとEのある人から見れば淋しそうに見えます。

 人間関係は、殆どが自分の感情の投影です。自分の中にないものは見えないからです。それを理解すると、少し楽になります。

 もう一つは、「本当の幸せは何か」ということです。本当の幸せとは、Yu
(ユー)を知ることです。たとえ、死のベッドの上であっても、死の一日前であっても、Yu(ユー)を知ることができれば、幸せでしょう。生きてきた意味があるでしょう。もし、Yu(ユー)を知らなければ、灰になってお終いだからです。すべては虚無だからです。

 ですから、世の中の不幸は、本当に不幸なのでしょうか。その不幸がYu(ユー)を知るきっかけになるならば、それはラッキーではないですか。たとえすべてを失ったとしても、Yu(ユー)を知ることができれば最高の幸せなのではないでしょうか。逆に、世間の幸せが、Yu(ユー)を知ることを妨げているのなら、その幸せは不幸なのではないでしょうか。

 「最高の幸せはYu(ユー)を知ること」、そのような目で人を見たとき、ずいぶん気が楽になります。可哀想な人を見たとき、「ひっとしたらこの不幸が、この人がYu(ユー)を知るきっかけになるかな、なってほしい」と思います。だからといって、Yu(ユー)を勧めるということではありません。ただ、そのような気持ちで見守るということです。

 人によっては、業が深くてもっと不幸にならないと気づけない人もいます。相手がその気にならないと出会いになりません。時が熟す必要があります。それには時間がかかります。でも、どんなに不幸になっても、失うものは「世間体」だけです。「他人の山」を登る生き方だけです。安心して見守っていてもいいのです。ある時、何かが変わります。

 いずれにせよ、私たちはYu(ユー)を知ることが第一です。Yu(ユー)を知れば、Yu(ユー)を介した人間関係が発生します。私はYu(ユー)から見れば、価値ある存在です。素晴らしいのです。ですから、あなたもYu(ユー)から見れば素晴らしいのです。これが、Yu(ユー)を介する人間関係です。

 人間が素晴らしいはずはありません。時には、良いことも考えますが、どくでもない存在です。しかし、Yu(ユー)から見れば、Yu(ユー)の子なのです。今は、K(我)の子かもしれないが、いつか、Yu(ユー)の子になる存在なのです。

 このように、客観的に見ていくためには、世間の人間関係の縛りから自由にならなければなりません。それが、孤立と孤独を引き受けるというトレーニングです。きびしいようですが、これが最も強力な方法です。

  ただし、世捨て人になるということではあれません。心の中のトレーニングです。「現実は変えない」、これが鉄則です。ただ、心の面で人に依存しない、可哀想ということで引きづり込まれないということです。