3.死んだら灰になってお終いは、唯物論という考えであり証明はありません。


  「死んだらおしまい」と誰もが信じています。しかし、本当に死んだらおしまいなのであれば、一切は虚無です。どんなに成功しても、どんなに頑張っても、さらにどんなに自分を生きても、最後が虚無ということであれば空しいだけです。

  そして、この空しさからくるストレスは、心身相関と生活習慣を乱す最大の原因となります。虚無の解決なしには健康医学はあり得ないのです。

  「人よりは多少長生きした」とか、「やりたいことはたいていできた」とか、「人間は死ぬものなんだよ」とか、いろいろと言っても、それは自己説得です。懸命に理性で納得しようとしていますが、死は納得できるものではありません。これでは、人生を喜ぶことはできません。


 
本当に人生を喜ぶためには、死の解決がいります。「死は私の終わりである」というのは本当でしょうか。科学的に証明できていることでしょうか。いいえ、証明した大学も研究所も一つとしてありません。一枚の論文もありません。

 
死んだら灰になっておしまいということは、私は、身体から発生した、細胞から発生したということを前提にしています。ですから、身体の死、つまり細胞が死んだら、私は消滅すると考えていて、しかも、これが、科学的な考えだと思っているのです。

  しかし、科学は、長さと重さと速さがあるものしか対象にはできません。測定できるものしか対象にできないのです。ですから、細胞は対象にすることができます。しかし、私の精神、私の命、私自体は、長さも速さも重さもありませんので、測定できません。

  細胞という測定できるものから、命や精神や私自体という測定できないものが発生するのかどうかは、科学的な実験ができないのです。実験ができない以上、細胞から私が発生したのかどうかは、科学の対象にならない、科学で知ることができないのです。

  私達の常識になっている、死んだら私も消滅するということは、科学的に証明されたことではなく、物から全てが発生したと考える唯物論の考え方に過ぎないのです。


  このように、死は誰にとっても最大の問題のはずですが、「死んだら灰になっておしまい」と証明もなしに信じています。

 
それでは唯物論によるマインドコントロールです。最も重要な問題ですから、もう一度、事実に立って、真剣に考える必要があるはずです。もし、「私」が身体から発生したのであれば、死とともに「私」も消滅します。それが本当かどうか確認してみましょう。

 
「私」はどこにいるのでしょうか。人間は誰でも、精子と卵子が結合した1個の受精卵からの出発です。精子や卵子は100%親の細胞です。親の細胞の結合でできるものは親の変形だけです。どこまで行っても親の変形だけであり、親とは別の存在である「私」は発生できません。

 
親といっても、祖父母の受精卵から発生していますので、受精卵から発生するのであれば、、親も祖父母の変形に過ぎないはずです。でも、親と祖父母とは別人格です。生命誕生以来、延々と受精は繰り返されて現在に至っているのですから、最初の親の変形だけということになりますが、全ての人は、別人格です。

  さらに、一卵性双生児の場合はどうでしょうか。一卵性双生児は、一個の受精卵から二人になるのですから、材料としては全く同じものです。受精卵の中に「私」がいるのであれば、身体は別々でも、精神や人格は同じにならないといけません。しかし、一卵性双生児だからといって、同じ人ということはありません。別々の人です。このようにして見ると、
精子や卵子や受精卵の中に「私」はいません。

 
次に、現在の状態で考えてみましょう。手や足は切断されても、「私」が一部分消えることはありません。手や足に「私」がいるのではありません。

  心臓、腎臓、肝臓はどうでしょうか。それらの臓器は日常で移植手術されていますが、移植しても「私」は消失しません。心臓や腎臓などの臓器にも「私」はいません。

  すべての細胞は1個の受精卵から分裂した同一の細胞ですから、細胞の中に私がいるのであれば、この手の細胞にも足の細胞にも私がいることになります。

  しかし、手や足がなくなっても私はなくなりません。もっと簡単に言えば、毎日落ちている垢は皮膚の細胞が壊れたものです。垢とともに私は毎日死んでいるのですか。

  最後に残るのは脳です。脳に「私」がいるのでしょうか。


 
1個の受精卵は、分裂して2個になります。さらに4個、8個となり、最後は75兆個になります。「私」も分裂し75兆個になります。手足やいろいろな臓器の中で75兆個に分断された「私」が存在することになります。75兆個に分断されることも、上記のようにおかしいことですし、脳だけに「私」が存在することはもっとおかしいことです。


  最大ゆずって、細胞は分裂しても「私」は分裂しないで、脳の神経細胞に残るとしましょう。しかし、これでは最後まで、1個の神経細胞の中にいることになります。たった1個の神経細胞に、目や耳や痛みや熱さなど身体全体の感覚を伝える膨大な数の神経細胞が集中し、さらに適切な行動の指示を出すことはできません。

  仮に「私」が1個の神経細胞ではなく、10億個の神経細胞に残ったとしても、しょせんは1個1個の細胞の集まりですから、どの細胞が「私」のどの部分に相当するのでしょうか。「私」は10億個に分解可能なのでしょうか。そんなことはありません。「私」はただ一つです。

  では、最初から受精卵の中に「私」がいたのではなく、脳から発生したということはどうでしょうか。

  神経細胞は電線のようなものですから、束になった電線から電磁波のようなものがでて「私」が発生するのでしょうか。電磁波から発生するとするのなら、その「私」は、常に電流が流れることの結果として浮かび上がる映像のようなものです。主体としての「私」、能動的な「私」ではありません。

  まして「私」は、悲しみや喜び、平和や愛という心や理念の世界を生きています。物質の反応は単なる強弱だけの量の世界であり、心や理念という意味の世界は発生できません。


 
このように、身体から「私」が発生したということは証明でません。しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、行動しています。身体から発生していないのに、「私」は実在します。身体は死によって消滅しても、身体から発生していない「私」は消滅しません。身体の死は、身体の消滅ではあっても、実在している「私」の消滅ではないのです。

 
ただ、記憶は脳の神経細胞に蓄えられていますので、脳の死と共に記憶も消失します。その点から見れば、確かに死は別れです。悲しいことです。しかし、灰になって消滅するという虚無ではないのです。

  なお、実在している「私」を実感するためには、頭で理解すると同時に、体得が必要です。丹田呼吸法とファースティング(絶食療法)という「自分体験」の方法を用いているのはそのためです。