2.かぎりなく優しいYu(ユー)が存在する
a.偶然か必然かーYu(ユー)の存在

 自分で心臓を動かしていない以上、生かされてるという事実を否定することは、この世界に住む60億あまりの人間の誰一人にもできないことは明らかです。 しかし、人間が誕生したのは、偶然なのか、いや必然なのかという問題は残ります。大多数の人は偶然だと考えています。しかし、それは本当でしょうか。

 単なる偶然の重なりで、原子が核酸やアミノ酸という分子になり、さらに、気の遠くなるほどの偶然の繰り返しの結果、細胞となり、さらにその1個の細胞が、 分裂に分裂を繰り返し動物となり人間になった。それは物語としては良いかも知れませんが、あくまでも証明されていない仮説です。

 人間や動物となってからは、精子と卵子が結合した1個の受精卵が分裂を繰り返し75兆個の細胞になります。ある細胞は心臓の筋肉に、あるものは腎臓に、骨に、皮膚に、さらに神経細胞になります。

 1個の細胞が75兆個の細胞になり、しかも多種多様な細胞となり、自律神経系、内分泌ホルモン系、免疫系などが、全体としての生命を保つために働いています。

 もし、皮膚になるべき細胞が胃の細胞になったら大変です。美味しそうなビフテキを見たら胃酸が出ますが、皮膚から胃酸が噴き出たら困ります。どんなに細胞が新しく生まれ変わっても皮膚は皮膚の細胞、胃は胃の細胞です。

 顕微鏡で見る一つ一つの細胞は小宇宙です。一つ一つの細胞が肝臓なら肝臓、腎臓なら腎臓の構造を支えているのですが、言葉ではとうてい表現できない整然と した、しかも調和のある素晴らしい構造です。さらに、生体の化学反応の秩序ある連鎖反応、どれ一つをとっても、確実で厳密な事実です。 

 自動車や飛行機を考えてください。甲子園球場のような大きな広場に、鉄くずやゴムの塊を山積みにし、その上から水をかけておくだけで、ある日突然自動車となって走り出しますか。飛行機となって空を飛んでいきますか。そんなことをしても錆びてゴミになるだけでしょう。

 自動車や飛行機のような人間に比べれば単純なものでも、設計図を書き、部品を一つずつ作り、それを組み合わしていかなければ何もできません。そんなこと は、誰だって分かります。しかし、動植物や人間については、「偶然」が設計図を書き、部品を作り組み合わせたというのですか。

 設計図は生物では遺伝子ですが、人間の遺伝子は、核酸を形成している4つの物質が30億個ほど並んでできています。30億人の人間が手をつないで並んでい ると想像してください。人間は地球上には60億人ぐらいしかいませんから、大変なことです。しかも、そのうちの1人の順番が狂っただけで発生する遺伝子病 もあります。その厳密な仕組みを「偶然」がしたというのでしょうか。

 車や建物のように部品の組み合わせでできているもの、その部品もせいぜい数万点でしょう。それに比べて、人間は1個の受精卵から75兆個の細胞になって生きています。

 もし、「偶然」がしたというのなら、人間や動植物を誕生させるためには、天文学的な数の偶然が秩序正しく調和をもって重ならなくてはなりません。天文学的な数の偶然が秩序正しく調和をもって重なるということは、偶然ではなく、必然だということです。

 必然だということは、作者が存在するということです。

 そこで、私は「私たちを医学的に生かしてくれている存在」をYu(ユー)と名付けました。 何と呼んでも良いのですが、宗教ではありませんので、新しい言葉がいります。それでYu(ユー)と呼んでいます。

 科学は事実の一部を明らかにしてくれます。1個の細胞が小宇宙ですから、とても全部はわかりません。 分かるのはごく一部です。科学は無限の事実の中の一部の事実を明らかにする方法です。 その事実から生命全体をどう理解するかは、私たちの知性の仕事です。

  「生かされてる事実」は、自分で脈を取り、鼻をつまみ、水を飲めば分かります。誰だって自分で確かめることができます。 単純で明快なことです。

 しかも、生かしてくれるのは、私が立派だからではありません。自分自身の心の中を見ればよく分かります。私は実にいいかげんな人間です。腹を立てたり、怒ったり、憎んだり、 損得ばかり計算したりと、心の中ではろくなことをしていません。

 自分の心の中を見て、それでも自分は立派だと思える人がいたら、それこそ異常でしょう。もし、正当に評価されたら、 この世に残れる人など一人もいないでしょう。しかし、私が立派であろうが、駄目な人間であろうが、 それとは関係なく私たちは生かされています。

 社会の評価はどうでしょう。社会の評価は、100点を取ったときは拍手が来ます。仕事が成功したり、 良い家庭であったりすれば、良い評価をもらえます。しかし、いつも100点、いつも成功、いつも理想的な家庭はないでしょう。

 それはむしろ人生の一時期であり、大部分はそうではないでしょう。しかし、どんなときでも、太陽は昇ります。酸素はあります。心臓は動いています。

 そんなことは大したことがない。当たり前だと思う方もおられるでしょう。しかし、それは生命が当たり前だと思っておられるからです。 生命は、決して当たり前ではありません。

 一匹の蚊を殺すことは簡単です。しかし、殺した蚊を生き返らすことは、全世界の医者と全世界の富を全部投入しても不可能なのです。 生命とはそのようなものなのです。

 生かされていることは、当たり前ではなく、しかも、私が良い子でなくとも、社会的に成功していなくても、 一切関係なく私を生かしてくれています。これは優しい世界です。かぎりなく優しいYu(ユー)です。

そのかぎりなく優しいYu(ユー)から見れば、「私は大切な存在」なのです。「かけがえのない存在」なのです。 だから、「どんなに何もなくても、どんなにみじめでも、私は素晴らしい」のです。

 しかも、今も心臓は動いています。私たちの体は温かです。常に「Yu(ユー)とともに」あります。with Yu(ユー)です。人間は優しい時もありますが、人間はそんなに強くはありません。いつもいつも優しくはあり得ません。それを求めるのは酷なことでしょう。

  しかし、Yu(ユー)の優しさには限りがありません。しかも、with Yu(ユー)です。もうあなたは孤独ではないのです。


b.「生かされてる医学」は総合的認識

 科学が明らかにした事実から、どのように理解しようとそれは自由ですが、正確に理解するということはどういうことかということを整理しておく必要がありま す。「それは真実かどうか」、「それは正しいことかどうか」、日常生活の中で私たちは毎日、いろいろと判断しています。

 日常の大半は、毎日やっていることですから漠然としたことでも問題ありませんが、「生命は偶然か必然か」というような問題になると、 よく考えてみる必要があります。

 判断の方法には、科学的認識(物理学や医学など、事実に基づくもの)、論理的認識、感情的認識(優しい、悲しい、楽しいなど)、 感覚的認識(爽やか、痛い、快いなど)、直感的認識などがあります。

 科学的認識や論理的認識は合理的な認識方法で、感情的、感覚的、直感的認識は、体験的な認識方法です。

 特に、科学的認識は、重さと長さと速度が測定できるものを対象にするもので、私の喜びや感動、 心や精神という物として測れないものは対象にできません。

 このように、さまざまな判断や考えは、まずどの認識方法を使って判断したのかを明らかにする必要があります。

 例えば、目の前に誰かが立っています。身長は170cm、体重は65kgというのは科学的認識ですが、それだけで何も分かりません。「顔の表情がなんとも 嫌な感じがします。私はこの人は嫌いです」というのもその人のごく一部を、しかも実に不正確に知ったことにしかなりません。
 偶然か必然かの問題も同じです。真実は何かを知るためには、その認識方法が適切かどうかまず考える必要があります。

 科学的認識は、事実の一部を明らかにしますが、それを誰が造ったかを明らかにするものではありません。

 たとえば、目覚まし時計があります。目覚まし時計を分解して、ここはこうなっているということは明らかにできますが、誰が設計して、何のために作ったのかという設計者や目的については明らかにできません。

 ですから、偶然か必然かという問題は科学的認識ではなく、論理的認識の対象です。そして、天文学的な数の偶然が必要ということは、論理的には偶然ではできないということです。それでも偶然だと言い張るのは、まさに論理的ではないでしょう。

 さらに、ファースティング(絶食療法)や丹田呼吸法という体得的認識法も駆使します。感情的、感覚的、直感的認識法です。「私は自由です」、「私は生かされてます」ということは、最終的には実感の世界にならなければ喜びにはなりません。

 このように総合的認識を用いて、自由と感動と喜びの人生を得ようとするものです。


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