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タイトル死に対する3つの視点
記事No3
投稿日: 2017/09/11(Mon) 12:49
投稿者sasada
(死に対する3つの視点)

 意識的に、現代人は、死を 直視することを避けていますが、それだけに、死の不安は無意識の世界で広がり、はっきりとは原因がわからないうちに、生きるエネルギーが奪われていきます。 人生が、灰色に染まっていきます。

 死は、最大のストレスであり、最大の不幸です。最も、嫌なことであり、死を越える不幸は存在しません。しかも、「死んだら灰になってお終い」と信じていますから、死を直視することもできません。解決のない問題は、考えないようにするのは当然でしょう。

 しかし、「死んだら灰になってお終い」は虚無です。何をやっても最終的には無意味です。この虚無は、無意識の世界を支配し、生きる希望や喜びを食い滅ぼしています。無気力、無感動化を進めます。特に、子供たちに強く影響を及ぼします。親が希望を持てない生き方をしていれば、子供に影響するのは当然です。

 それだけに、死を直視する必要があります。「死んだら灰になってお終い」は本当なのかを見る必要があります。3つの視点で見ていきましょう。

 一番目は、科学からの視点。「死んだら灰になってお終い」は、科学ではなく唯物論という一つの考えにすぎないということです。二番目には、医学からの視点。医学的事実から推論すれば、「私」は身体から発生していません。三番目には、実存体験からの視点。今を生きている時、すなわち実存体験のとき、死は存在しないことを見ていきます。

 まず、一番目の科学からの視点です。「死だら灰になってお終い」というのは本当でしょうか。科学的に証明できていることでしょうか。いいえ、証明した大学も研究所も一つとしてありません。一枚の論文もありません。

 「死んだら灰になってお終い」ということは、「私」は、身体から発生した、細胞から発生したということを前提にしています。ですから、身体の死、つまり細胞が死んだら、「私」は消滅すると考えていて、しかも、これが、科学的な考えだと思っているのです。

 しかし、科学は、長さと重さと速さがあるものしか対象にはできません。測定できるものしか対象にできないのです。細胞は対象にすることができます。しかし、私の精神、私の命、私自体は、長さも速さも重さもありませんので、測定できません。

 細胞という測定できるものから、命や精神や「私」という測定できないものが発生するのかどうかは、科学的な実験ができないのです。実験ができない以上、細胞から「私」が発生したのかどうかは、科学の対象にならない、科学で知ることができないのです。

 私達の常識になっている、死んだら「私」も消滅するということは、科学的に証明されたことではなく、物から全てが発生したと考える唯物論の考え方に過ぎないのです。

 このように、死は誰にとっても最大の問題のはずですが、「死んだら灰になっておしまい」と証明もなしに信じています。

 二番目は、医学からの視点です。医学的事実からの推論です。医学的事実から推論して、死はお終いであるかを見ていきましょう。「私」は、身体の死とともに消滅するのでしょうか?

 「私」はどこにいるのでしょうか。人間は誰でも、精子と卵子が結合した1個の受精卵からの出発です。精子や卵子は100%親の細胞です。親の細胞の結合でできるものは親の変形だけです。どこまで行っても親の変形だけであり、親とは別の人格である「私」は発生できません。

 親といっても、祖父母の受精卵から発生していますので、受精卵から発生するのであれば、、親も祖父母の変形に過ぎないはずです。でも、親と祖父母とは別人格 です。生命誕生以来、延々と受精は繰り返されて現在に至っているのですから、最初の親の変形だけということになりますが、全ての人は、別人格です。

 さらに、一卵性双生児の場合はどうでしょうか。一卵性双生児は、一個の受精卵から二人になるのですから、材料としては全く同じものです。受精卵の中に 「私」がいるのであれば、身体は別々でも、精神や人格は同じにならないといけません。

 しかし、一卵性双生児だからといって、同じ人ということはありませ ん。別々の人です。このようにして見ると、精子や卵子や受精卵の中に「私」はいません。

 次に、現在の状態で考えてみましょう。手や足は切断されても、「私」が一部分消えることはありません。手や足に「私」がいるのではありません。

  すべての細胞は1個の受精卵から分裂した同一の細胞ですから、細胞の中に私がいるのであれば、この手の細胞にも足の細胞にも私がいることになります。

  しかし、手や足がなくなっても私はなくなりません。もっと簡単に言えば、毎日落ちている垢は皮膚の細胞が壊れたものです。垢とともに私は毎日死んでいるのですか。

  心臓、腎臓、肝臓はどうでしょうか。それらの臓器は日常で移植手術されていますが、移植しても「私」は消失しません。心臓や腎臓などの臓器にも「私」はいません。

 最後に残るのは脳です。脳に「私」がいるのでしょうか。

 1個の受精卵は、分裂して2個になります。さらに4個、8個とな り、最後は60兆個になります。「私」も分裂し60兆個になります。手足やいろいろな臓器の中で60兆個に分断された「私」が存在することになります。 60兆個に分断されることも、上記のようにおかしいことですし、脳だけに「私」が存在することはもっとおかしいことです。

 最大ゆずって、細胞は分裂しても「私」は分裂しないで、脳の神経細胞に残るとしましょう。しかし、これでは最後まで、1個の神経細胞の中にいることになりま す。たった1個の神経細胞に、目や耳や痛みや熱さなど身体全体の感覚を伝える膨大な数の神経細胞が集中し、さらに適切な行動の指示を出すことはできませ ん。

 仮に「私」が1個の神経細胞ではなく、10億個の神経細胞に残ったとしても、しょせんは1個1個の細胞の集まりですから、どの細胞が「私」のどの部分に相当するのでしょうか。「私」は10億個に分解可能なのでしょうか。そんなことはありません。「私」はただ一つです。

 では、最初から受精卵の中に「私」がいたのではなく、脳から発生したということはどうでしょうか。

 神経細胞は電線のようなものですから、束になった電線から電磁波のようなものがでて「私」が発生するのでしょうか。電磁波から発生するとするのなら、その 「私」は、常に電流が流れることの結果として浮かび上がる映像のようなものです。主体としての「私」、能動的な「私」ではありません。

  まして「私」は、悲しみや喜び、平和や愛という心や理念の世界を生きています。物質の反応は単なる強弱だけの量の世界であり、心や理念という意味の世界は発生できません。

 このように、身体から「私」が発生したということは証明でません。しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、行動しています。身体から発生 していないのに、「私」は実在します。身体は死によって消滅しても、身体から発生していない「私」は消滅しません。身体の死は、身体の消滅ではあっても、 実在している「私」の消滅ではないのです。

 ただ、記憶は脳の神経細胞に蓄えられていますので、脳の死と共に記憶も消失します。その点から見れば、確かに死は別れです。悲しいことです。しかし、灰になって消滅するという虚無ではないのです。

 最後に、三番目の実存体験からの視点です。今を生きている時、実存体験している時には、死は消滅しているということを見ていきましょう。

 心の時間軸を理解することが大切です。心は、物とは違った動きをします。物は、時計の時間どうりに、過去、現在、未来と動いています。

 しかし、心は、過去の体験や学んだことによって、現在を生きています。さらに過去の経験と学んだことによって、未来を推測しています。過去が、現在を支配し、過去が未来を作っています。

 このために、日常生活を、普通に生きているかぎり、現在も過去であり、未来も過去の延長線です。未来と言っても、過去の投影であり、過去を見ています。

 死は、過去に、人は必ず死ぬということを学んだり、死んだ人を見た経験から、自分の未来にも必ず起こるという推測です。死も、過去からの推測です。 

 一方、今を生きている実存の時には、実感の世界ですから、時間はありません。「私」は存在しますが、現在しかありません。過去は消滅しています。現在しかないので、未来もありません。この時、死は存在しません。

 実感の世界に時間がないというのは、変に聞こえるかもしれませんが、実際はいつも体験しています。思考の世界の時間は、時計の針の時間であり、1時間は1時間、1年は1年と数えることができますので、過去から現在を考え、過去から未来を推測できます。

 普通は、思考する世界が主流で、社会は、時計の針の時間で成り立っています。「朝の8時に駅で会いましょう。」というのは、時計の針の時間です。社会適応のためには、時計の針の時間を生きることが大事ですから、それが、当然だと思って生きています。

 しかし、生きている実感の世界では、同じ1時間でも、楽しい時は短く、嫌なことをしている時は、長く感じます。時計の時間とは違って、時間は伸びたり縮んだりしています。つまり、現在しかありません。過去がなくなっていますので、未来もなく、死もないのです。 

 今を生きている実存の世界を生きる方法が、かぎりなく優しい心身医学です。頭をカラッポにする丹田呼吸法によるゼロ体験と、生かされてる医学的事実の理解で、実存体験ができます。生きている感動と喜びの世界です。不安も不満も傷つく自分も、過去も、未来もない世界です。

 実存の世界には、ソクラテスの無知の自覚の自我も、デカルトの我思うゆえに吾ありの吾も、虚無に陥った現代人の自我も存在しません。目の前にあるのは、素晴らしい法則と美しい調和とかぎりなく優しい世界です。自分の中にあるのは、自分を超えた、不思議な優しさの自分です。すべてが不思議であり、感動的です。かぎりなく優しい心身医学を、自分のために、子供たちのために、是非、学びましょう。