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タイトル私たちは、偶然の産物か、必然か
記事No2
投稿日: 2017/09/11(Mon) 12:47
投稿者sasada
 私たちは、人間も偶然にできたと思っています。しかし、それは本当でしょうか?

 自分で心臓を動かしていない以上、生かされてるという事実を否定することは、この世界に住む70億あまりの人間の誰一人にもできないことは明らかです。 しかし、人間が誕生したのは、偶然なのか、必然なのかという問題は残ります。大多数の人は偶然だと考えています。すべてのものは、物から偶然に発生したという唯物論の時代を生きていますから、それが普通といえば普通です。

 しかし、自分を偶然の産物と思っていると、著しく充実感を喪失します。自分を肯定できません。自分の肯定は、社会の評価に頼らざるを得ません。しかし、社会の評価は、失敗すれば、すぐになくなって逆に存在の否定になります。特に問題なのは、子供たちに対してです。子供に対しても偶然の産物だと思っているとしたら、それは非情です。酷なことです。

 日常性格で、偶然か必然かという問題は、どうでも良いことのように見過ごしていますが、本当は、大変大事な問題で、しっかり見ていく必要が有ることです。

 単なる偶然の重なりで、原子が核酸やアミノ酸という分子になり、さらに、気の遠くなるほどの偶然の繰り返しの結果、細胞となり、さらにその1個の細胞が、 分裂に分裂を繰り返し動物となり人間になった。それは物語としては良いかも知れませんが、あくまでも証明されていない仮説です。

 科学は、再現できるという保証が必要ですが、再現のために、あまりにも長い年月を必要とするために証明できません。なによりも、それが偶然によるものか、必然かという問題は、科学の対象にはなりません。科学は、事実についての関係や法則を明らかにする学問であって、その関係や法則ができたのが、偶然の結果か必然によるものかを判断することはできません。

 さらに、人間や動物となってからは、精子と卵子が結合した1個の受精卵が分裂を繰り返し60兆個の細胞になります。ある細胞は心臓の筋肉に、あるものは腎臓に、骨に、皮膚に、さらに神経細胞になります。

 1個の細胞が60兆個の細胞になり、しかも多種多様な細胞となり、自律神経系、内分泌ホルモン系、免疫系などが、全体としての生命を保つために働いています。

 もし、皮膚になるべき細胞が胃の細胞になったら大変です。美味しそうなステーキを見たら胃酸が出ますが、皮膚から胃酸が噴き出たら困ります。どんなに細胞が新しく生まれ変わっても皮膚は皮膚の細胞、胃は胃の細胞です。

 顕微鏡で見る一つ一つの細胞は小宇宙です。一つ一つの細胞が肝臓なら肝臓、腎臓なら腎臓の構造を支えているのですが、言葉ではとうてい表現できない整然とした、しかも調和のある素晴らしい構造です。さらに、生体の化学反応の秩序ある連鎖反応、どれ一つをとっても、確実で厳密な事実です。

 腎臓を見てみましょう。腎臓は、左右1個ずつあり、1個の腎臓には、100万個の糸球体という濾過装置があります。1本の腎動脈が、100万本の細い動脈に分かれてその中に入り血液を濾過します。その後、その動脈は100万本の細い静脈となって濾過した尿を再吸収し、1本の腎静脈となって帰ってきます。左右の腎臓で1日に180リットル濾過し、178リットル再吸収し、2リットルが尿になります。凄いことなのです。

 腎臓一つを見ても、とてつもなく素晴らしい法則と美しい調和でできています。人間が作ることなど到底できません。人間の能力を完全に超えています。ただただ、驚きと感動するしかありません。

 もう少し、日常的なことでも考えてみましょう。自動車や月ロケットを考えてください。甲子園球場のような大きな広場に、鉄くずやゴムの塊を山積みにし、その上から水をかけておくだけで、ある日突然自動車となって走り出しますか。月ロケットとなって空を飛んでいきますか。そんなことをしても錆びてゴミになるだけでしょう。

 自動車や月ロケットのような人間に比べれば単純なものでも、設計図を書き、部品を一つずつ作り、それを組み合わしていかなければ何もできません。そんなこと は、誰だって分かります。しかし、動植物や人間については、「偶然」が設計図を書き、部品を作り組み合わせたというのでしょうか。

 設計図は生物では遺伝子ですが、人間の遺伝子は、核酸を形成している4つの物質が30億個ほど並んでできています。30億人の人間が手をつないで並んでい ると想像してください。人間は地球上には70億人ぐらいしかいませんから、大変なことです。しかも、そのうちの1人の順番が狂っただけで発生する遺伝子病 もあります。その厳密な仕組みを「偶然」がしたというのでしょうか。

 車や飛行機のように部品の組み合わせでできているもの、その部品もせいぜい数万点から数十万点でしょう。それに比べて、人間は1個の受精卵から60兆個の細胞になって生きています。

 もし、「偶然」がしたというのなら、人間や動植物を誕生させるためには、天文学的な数の偶然が秩序正しく調和をもって重ならなくてはなりません。天文学的な数の偶然が秩序正しく調和をもって重なるということは、偶然ではあり得ません。私たちは、偶然の産物ではできません。私たちは、偶然の産物ではなく、必然です。

 しかも、生かしてくれるのは、私たちが立派だからではありません。自分自身の心の中を見ればよく分かります。私たちは実にいいかげんな人間です。腹を立てたり、怒ったり、憎んだり、 損得ばかり計算したりと、心の中ではろくなことをしていません。

 自分の心の中を見て、それでも自分は立派だと思える人がいたら、それこそ変でしょう。もし、正当に評価されたら、 この世に残れる人など一人もいないでしょう。しかし、私たちが立派であろうが、駄目な人間であろうが、 それとは関係なく私たちは生かされています。

 社会の評価はどうでしょう。社会の評価は、100点を取ったときは拍手が来ます。仕事が成功したり、 良い家庭であったりすれば、良い評価をもらえます。しかし、いつも100点、いつも成功、いつも理想的な家庭はないでしょう。それはむしろ人生の一時期であり、大部分はそうではないでしょう。しかし、どんなときでも、太陽は昇ります。酸素はあります。心臓は動いています。

 そんなことは大したことがない。当たり前だと思う方もおられるでしょう。しかし、それは生命が当たり前だと思っておられるからです。 生命は、決して当たり前ではありません。

 一匹の蚊を殺すことは簡単です。しかし、殺した蚊を生き返らすことは、全世界の医者と全世界の富を全部投入しても不可能なのです。 生命とはそのようなものなのです。

 生かされていることは、当たり前ではなく、しかも、私が良い子でなくとも、社会的に成功していなくても、感謝しなくても、 一切関係なく私を生かしてくれています。これはかぎりなく優しい世界です。

 そのかぎりなく優しい世界から見れば、「私は大切な存在」なのです。「かけがえのない存在」なのです。 だから、「何もなくても、どんなにみじめでも、私は素晴らしい」のです。

 このように素晴らしい法則と、美しい調和とかぎりない優しさの中で、私たちは、必然として生かされています。そして、必然ということは、私たちを医学的・科学的に生かしてくれている存在がいるということです。

 机を見ても、それが偶然の産物であるのなら、製作者はいません。しかし、必然であるのなら、設計図を書いて、制作したものが存在します。同様に、生物をはじめ私たちが、必然であるのなら、私たちを医学的・科学的に作り生かしてくれている存在がいるということです。

 その存在の特徴は、かぎりなく優しいということです。そこから、その存在を、Yuと名付けました。Yuは、漢字の優から来ています。

 宗教や道徳とは一切関係がありません。くれぐれも、宗教や道徳と混同しないようにお願い致します。医学的・科学的事実のみを原点とした世界です。